練習用短篇 作:レファレンス
返事は聞こえていた。
聞こえた筈だ。俺の耳がおかしくなっていなければ。聞いてしまった以上は、何かを言わなくてはならない。『ごめん』でも『すみません』でも『あーー』でも何でも良いから、短くても全然良いはずだから言わなくてはならない。
分かっている。分かってはいるんだ。
でも、いざ口を開けようとすると音が止まって声が出せなくなる。口の中の粘液という粘液が乾きすぎて、舌には油が間違いなく足りていなかった。空いた口がパクパクとまるで餌を食べる鯉みたいに開いては閉じてを繰り返している。
駅の改札口手前で俺はそんな状態だった。
端から見たら滑稽だろう。客観的に見ても無様だろう。
もし、ココに鏡があったら、笑っていたかも知れない。笑えたら良かったのかも知れない。
対面の彼女は、そんな俺を見ても笑わなかった。ただ、真剣な表情で俺を見据えていた。まるで、俺の心中すらも洗いざらい見透かしているかのような眼差しだった。
心の中を覗かれるのが嫌なくらい、邪な考えなんて今の俺には持ち合わせてはいなかったけれど、今の俺の心中は正直に言って良く分からなかった。
悲しいのか、悔しいのか、落胆しているのか。怒っていたり、楽しんでいたりしていないのは確かなはずだ。だぶんだけど。
俺は何でも見透かしていそうな彼女の視線から逃れるために、斜め下に視線をずらす。それだけで逃れられるとは思っていないけど、そう思わないとやっていけそうに無かった。
ずらした視線の先に自分の手のひらが見えた。自分でも気が付かなかったが、手はブルブルと震えていて、まるで危ない薬を使用している人みたいだった。
外はそんなに寒いわけではなかった。むしろ、暑いくらいだった。
でも、俺の体はとにかく寒かった。
そうか、寒かったのか。
さっきまでは、耳が真っ赤になるほど、体の熱という熱が頭に集められたのかと錯覚するほど暑かったのに、今は背中がとても寒かった。まるで冬の時期に外で遊んでいるみたいだった。
俺は口を開くのを止めて、黙りこくった。元から、喋れていなかったから、黙ることもないのだが、空いている口と閉じている口はそれぞれ違うように思える。
ただ、今は少しでも口を閉じて、鉄壁のように、自分を護る要塞のようにしなければいけなかった。必要なら瞼も閉じていたかった。
彼女から言われた言葉は『いや』だけだった。
それだけだった。たった、二文字。短すぎる言葉に、俺はもうノックアウト寸前まで追い詰められていた。
事の経緯は簡単で、結論から言うと俺が彼女に告白した。
それだけだ。そしてフラれた。それだけだ。
『付き合わない?』じゃなくて、もっと好意を示す『好きです、付き合いましょう!』と言った方が良かったのかも知れない。もしくは、『I Love You』みたいにネイティブに言うべきだったのかも知れない。今となってはどちらでも良いが、次があるなら覚えておきたかった。
次、次かぁ。
次なんてあるのだろうか。
これ以上、人を愛することがあるのだろうかと思ってしまう。人生は確かに、これから先まだまだ長いけれど、この一瞬の気持ちだけは、今まで生きてきた人生の中で一番だったのだ。今後の人生で塗り替えられるとは到底思えない。
「はぁー」と心の中でため息を吐く、吐かないとやっていけそうになかったからだ。明日からどんな顔をして彼女に会えば良いのだろうか。まだ友達でいられるかな。
視線を彼女に戻す。
彼女はさっきと変わらず相も変わらず蒼い目で俺を見ていた。
一体、俺らはいつまでこうしていたのだろうか。
彼女に断られてから、何分経過したのだろう。10分か20分か、体感だと何時間も経過したような気もするけど、案外数秒間しか経過していないような気もする。
すーっと息を整える。声を出すために、「ごめん」と一言謝るために。
それだけ言って、帰ろう。
振り返らずに、何もせずに。
「ごめ――「本当に?」え?」
「本当に、私で良いの?」
彼女は震える唇でそう言っていた。
彼女の目は若干先ほどよりも下がっていた。
よく見れば、彼女の手も震えていた。
俺だけじゃなかったのか。
「うん、俺は君がどうしようも無いほど好きみたいなんだ」
気が付けば俺はそんな事を口走っていた。まるで脳と口を切り離したように、先ほどまでの乾きは嘘だったかのようになめらかにそう言っていた。
「私なんかでいいの?」
「君がいいんだ」
「私は、確かに可愛いけれど、性格は可愛くないわ」
「そういう所に引かれたんだ」
「多分、私はこれからもあなたに酷いことを言うし、酷いことをするかも知れない」
「かまわないよ。俺は捻くれているから大丈夫」
「なにそれ」
ふふっと彼女は笑った。
それだけで俺の心は満たされた。
「ねえ」
「なに」
「自分に都合が良すぎて夢じゃないかと思うの」
「それで」
「抱きついてもいい」
「いいよ」
俺は彼女に抱きついた。やわらかな彼女の肌が、ぽかぽかと暖かい気持ちにさせてくれる。先ほどまでの寒さが嘘の様に温かかった。
俺は明日から、どんな顔で彼女に会えば良いのだろう。
それは明日の俺が考える事か。
人気のない改札口手前で、俺たちは幸せなくらい、一緒にいた。