練習用短篇 作:レファレンス
返却は、一年前だった。
何通もの催促の連絡の末、借りていた男――奥村 燐太郎は本を返すことにした。
楽しい思い出だったその本を借りるかも知れない誰かのために。
季節は春先。
まだ、外には冬の寒さが残っていた。
そのため奥村は上着を羽織って、図書館に来ていた。
手にはキャラクターが印刷されたトートバッグ。
件の本を入れるにしては過剰な大きさであったが、その鞄にはずっしりとした重さが確かにあった。
図書館の様相は一年前とそんなに変わったようには見えなかった。
入り口には、もう排架予定の本が『ご自由にお持ち帰りください」と置かれていて、少し古めのビジネス本や図書館についての教材に、巻数が飛んだ小説などが置いてある。
そこを抜けて、正面に入ると、今月の特集と書かれたコーナが設置されており、今話題の青春映画を思わせる作品が置いてあった。
奥村は、図書館に入るとすぅーっと息を吸った。
紙とインクと、少しのアルコール臭が奥村の鼻腔をくすぐる。
それだけで、なんだかトイレに行きたくなるのだから図書館は不思議な場所だ。
ふぅ、と吸った空気を吐く。
そしてもう一度、空気を吸う。
何度か繰り返して、奥村は図書館の奥へと入った。
落ち着くためと決意を固めるためだった。
奥村はまず図書館に入って貸出、返却窓口へは行かなかった。もちろん、返却ボックスにも。
向かったのは、その本が置いてあったコーナー。一番の哲学コーナーを抜けて、四、五と自然科学や技術の本を抜けていく。
向かうのは、九番目の文学のコーナーだった。
文学のコーナーは、抜けて直ぐそこにあった。
前と変わらない、作者名順の配置に、すぐにその本の場所が分かった。
一冊、足りないかなという幅がそこにはなかった。
作者の新しい作品が、元の幅の所に挟まっているようだった。
奥村はそれを見て、ほぅと小さく息を吐いた後、まだ取り出していなかった借りていた本を取り出す。
それだけで、時間が一年前に戻ったような気がした。
何分そうしていただろうか
新たな出会いがあるわけでもないのにそうしていた奥村は、今度は椅子を探すために移動し始めた。
座るところは直ぐに見つかった。
なんの変哲も無い、ベンチのような場所。
見つけて少し微笑む。
そこに奥村は腰掛けると、本をもう一度本を取り出す。
何回も何回も見た表紙がそこにはあった。
その本のしおりが挟んであるページを開ける。
ずいぶんと開いていなかったページを見て、奥村は目を閉じる。
閉じてから、少し微笑んだ。
それだけで、どこか満たされたような気がした。
紙のすれる音、靴の動く音、微かな笑い声が、静かな図書館の中で確かにあった。
その音も変わらなかった。
その音を黙って聞いていた。
しばらくして、奥村は本を返すことにした。
向かうは、返却窓口。
向かう足取りは、本の重さのせいか少し緩慢だった。
「はい、どうしましたか?」と受付のお姉さんは笑顔で奥村のことを迎え入れた。
それに対し、奥村は「返却を……」と小さく言った。
一年も借りた後ろめたさがあった。
奥村は、借りていた本を受付のお姉さんに渡す。
お姉さんはその本を一瞥した後、パラパラとめくった。
読む為ではない。
単に借りている本の中に、何か挟まっていないかを確認しているだけだった。
「あっ」と声を上げたのはどっちだったか。
お姉さんは、挟まっていたしおりを取り出すと奥村に返す。
それを少し顔を伏せて奥村は受け取った。
本はピッとバーコードが読み取られ、返却されていく。
読み取った際に、お姉さんから「もう少し早く返却してくださいね」と静かに怒られてしまった。
「はい」
奥村は静かに返事をした。
「現在、貸し出している本はありません。ありがとうございました」
それで終わりだった。
「あのッ!」
静かな図書館に奥村の声が酷く響いて聞こえた。
他の客も少しばかし足を止めて奥村を見ている。
「その本、済みませんが頂く事って出来無いのでしょうか」
奥村は自分の顔から出る汗を感じながらそう言った。
「代わりの本なら持ってきました。ですのでどうか……」
そう言った奥村の手には、先ほどと同じ本が握られていた。
薄いビニールが本全体に巻き付いており、新品だと言うことが一目で分かった。
お姉さんは、少し困った表情をしながら、「こちらへ」と隣の相談窓口と書かれた所へ案内をした。
案内をされた椅子に奥村は座る。
椅子に座って、お姉さんの方へと向き直る。
名札には「はな」と書かれていた。
「なんどもすみません、その本を頂く事は可能でしょうか?」
奥村はそう聞いていた。
受付のはなさんは、すこし戸惑っているようだった。
本来、こうした新品の本を図書館に寄贈するときは、本を汚してしまったり、無くしてしまったりと理由はある。だが、こうして真正面から欲しいと言われて持ってくる人は奥村以外いなかった。
だって、ボロボロの古本よりも新品の方が通常だったら良いはずだから。
「どうして、この本が良いのですか?」
「思い出の本だからです」
奥村はハッキリそう答えていた。
はなさんは、口元に握りこぶしを持ってきて、少し考えるそぶりを見せた。
思い出の本からと言って、ハイそうですかと渡すことは出来無かった。
「もう少し、具体的にお願いできますか」
そう言われて、今度は奥村が少し考えるように黙った。
やがて、「初恋の本なんです」と少し目線を右斜め下に向けたまま言った。
声は自然と低くなっていた。
「初恋の本?」
「ええ、初恋の本です。実は、この本が切っ掛けでいまの彼女と出会っているんです」
「ほう」と受付のはなさんが応えた。思っていた話しよりも面白そうだったからだ。
姿勢はやや前傾で、奥村さんの方に身体を傾けていた。
対照的に、奥村は身体をよせて縮こまった。
「それは、それは、おめでとうございます。それで、失礼ながらその本でどうやって出会ったのですか?」
「この本を手に取ったとき、偶然重なって……」
「ほう! 重なって!」
はなは大きい声を出していた。
周りの視線がはなに向かう。
はなは、「どうもすみません」と周りに頭を下げた。彼女自身、目線は気にしてはいなかった。
「すみませんね。それで重なって、どうしたのですか?」
「えぇ、えーとそれから、僕達は同じ作者が好きな同士、意気投合しまして、いろいろ付き合ったりとかしているワケで……正直、返すのが遅れたのは、この本がなくなったら離れちゃうんじゃないかと不安に思った次第で、すみません」
「なるほど、なるほど」
なるほどとはなは言っているが、彼女が理解したのはこの本が欲しいからと言う経緯ではなく、自分のすきなタイプのラブストーリーだなという事だけだった。
「それは、大切な本ですね」
「ええ、そうなんです」
奥村は正面を向いてそう言った。
それを見た彼女は、「しょうがないか」と少し困り顔を作った。
「分かりました。今回は特例中の特例でお渡し致します。あぁ、もちろんの事新品のその本はこちらが貰うという条件ですが」
「良いんですか!」
「ええ、ですが、今度はお早めに言いに来て下さいね。一年も待たされるのはこれっきりでお願いします」
「はい!」
そういって、受付のはなは、奥村から新品の本を受け取った。
古い方の本を奥村に渡して
図書館では奇妙な光景であったが、それを見ている人はいなかった。
奥村は、晴れやかな気持ちでその古い方の本を受け取った。
表紙やさわり心地が懐かしい。
パラパラとめくり、目的の物語の所にもう一度しおりを差し込んだ。
その本はまた誰かのキッカケになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。
もしかしたら読まれずに、排架送りになるかもしれない。
でも、奥村にとってはそれでも良かった。
また、あのカエルが東京を救うお話しがあの図書館にあるのだから