冬が終わった。
雪は溶けて泥濘へと変わり、寒さを耐えた芽が顔を出す。
同じように寒さを耐え忍ぶ人々も家の外で、より多くの作業を始める。
冬の冷たさで静かだったあらゆるものが、春を迎えて動き出したのだ。
そうして冬を越えたローリーも、春の陽気に誘われ動き出す。
この場合の春の陽気とは、ヒューゴの形をしていたが。
「ローリー! 春の畑を耕しに行こう!」
「奥様の許しを得てから、巻き込んで欲しいのでありますが」
「それは大丈夫、冬籠りの間に説得したからね」
「なら自分はいいですけど……」
ローリーはもう既に、ヒューゴの扱い方が分かっていた。
彼自身、恭しくされるのを好まないし、いちいち丁寧に付き合うには面倒な人物だ。
とはいえ善性の人ではあるので、断る理由が思い付かない厄介さを兼ね備えている。
このようにローリーはヒューゴと過ごす時間が多かった。
冬の間、約束通りにルイスに幾らかものを教えて貰う事はあった。
気まぐれにやって来た辺境伯がその代わりをする事もあった。
だが、より友人という形に近いのはヒューゴ。
さながら兄貴分といった様子でローリーを引っ張る形。
春を迎えてしばらくは、ヒューゴに連れ回されて冬籠りで縮こまった身体をほぐす。
それら手伝いが終われば、ルイスと共に武芸に励む。
そのような辺境伯家の日々の中で……ローリーが特に関わらない人物が、ひとり居た。
ある昼下がり、庭で日光浴をしていたローリーの近くを通りがかったのは辺境伯夫人。
「あ、奥様」
「あらローリー、暇してたの。少しこっちに来なさい」
ローリーからすれば、よく分からない人。
そんな人に誘われて無警戒に着いて行くのは、この一家全体で築き上げた人徳だろう。
木陰に誘われて、ローリーは身体をあちこち触られる。
「アンタ大きくなったわね……」
「そうでありましょうか? 自分ではサッパリ」
「ヒューゴが隠れて糖蜜掛けエンバクなんて山程与えたからね。アレはあんなに貪り食うもんじゃないのよ」
「へぇー、そうなのでありますか。自分はアレがあったからお腹いっぱいで幸せでしたよ」
「でもそれが脂肪になってないのは……食べ盛りなのかしら」
互いに好きな事を話して、まるで噛み合っていないが雰囲気は穏やか。
ローリーもだが、夫人も大概マイペース。
馬体のあちこちを撫でてやり、ローリーも満更でないのでされるがままに受け入れる。
「ほらほら、この辺りを撫でられるの気持ち良いんじゃないからしら」
「ほ、ほあぁ……」
「へへへ、アタシの馬を虜にする腕も落ちてないわね」
夫人は好き勝手にローリーを撫で回し、ローリーもローリーで恍惚といった様子。
双方共に人に見せられる状態ではないのだが、通りがかりの使用人を気にせず続けてしまうのでもう誰も止められない。
だが不意に、夫人の手が止まる。
「ちょっとローリー、前髪が目に掛かってる。それ邪魔じゃないの」
「髪? よく分からないのでありますが、確かにチクチクするのでありますね」
「切ってあげましょ。これでも馬の手入れ全般得意なんですから」
そういうと夫人は通りすがりの使用人に声を掛け、手入れ道具を持って来させる。
鋏やブラシ、そういった物。
それらを手に、夫人は大変張り切っていた。
「そら、座んなさい。髪切ってあげるから」
「えー、なんか怖いのでありますが」
「大丈夫よ! 慣れていますもの」
自信満々、意気揚々。
夫人はローリーの前髪を掴んで揃えると……横一文字に鋏を入れた。
あまりにも迷いのない一刀。
使用人らは止める暇もなく、パッツリと断たれたローリーの前髪を前に悲鳴、あるいは言葉を失うしかなかった。
「あぁ──! 奥様っ」
「うんうん、やっぱり馬と言ったらこの髪型よね。昔ルイスにもヒューゴにもやってあげたものよ」
「ほー……チクチクしないのであります!」
眉より上で断たれた前髪は横一文字。
ローリーは太めの眉を吊り上げて、大変喜んではいる。
いるが、使用人らはやってしまった、といった顔をしたまま。
「赤い髪が綺麗だから、後ろは残した方がいいわね。たてがみって言うべきかしら」
「どう違うのでありますか?」
「知らないわね。そういう細かいのはルイスが詳しいから、あの子に聞いたらいいわ」
「ヒューゴ様ではないのでありますか?」
「ヒューゴはその辺適当よ。ルイスの方が細かいこだわりが多いの」
「凄いのでありますね。奥様はルイス様の事も、ヒューゴ様の事も全部知っているみたいです」
「まさか。あくまで別の人間なのだから、貴女が思っているよりは知らない。でも己の子供の事なのだから、ルイスやヒューゴが思っているよりは、あの子達の事を知っている。それだけ」
「ほぉ。よく分からないけど、凄いのでありますね」
「親の心子知らずだけど、子供の方だっていつの間にか成長して変わっているものだからね。凄いのは子供達の成長よ。ま、だからアンタも大きくなんのよ」
夫人はローリーの赤毛に丁寧にブラシを掛ける。
細かい作業が好きな質らしく、鼻歌混じりにチマチマと。
これが従者や使用人の身繕いをしているのであれば、周囲も止めようものだが、ケンタウロスのローリーであればどうだろう。
結局ローリーの全身を整えて、赤毛は陽の光を浴びて一層艶やかに映える。
夫人はその出来栄えに満足したようで、達成感に満ちた息を吐く。
「あー、久しぶりに息抜きが出来た」
「奥様はなんと言いますか、思ったよりも……」
「親しみやすい?」
「たぶんそれです。自分はもっと怖い人なのかと思っていたのであります」
その言葉を聞いて夫人は少しばかりわざとらしく、真面目な顔を見せる。
「それは怒って、しっかりしなくてはならない時に会っているからでしょうね。時にはそのように引き締める事も肝要」
「自分なら、戦場がしっかりしなくてはならない時でしょうか?ルイス様が言っていたのであります、戦場では心を鎧うのだと」
「さて、戦場の事は分かりません。ですが来年、無事に帰って来たらまた切ってあげますから。だから絶対に帰ってくる事。いいですね?」
真剣で、そして優しく。
諭すように言う様は、ローリーの記憶の中に類似するものがない。
ローリーは己の心を温かくして、そして戦場に向かう寂しさを感じさせるコレはなんなのだろうと思った。
思ったが、答えは出ず。
そしてあっという間に季節は巡り、緩やかに過ごす日々は終わりを迎えた。
戦争の季節が始まる。
ルイスと共に行う鍛錬も、肉体と技術の維持から一段激しさを増した戦場を見据えたものに。
日に日に気は引き締まり、いよいよ荷造りをする頃合い。
ローリーが部屋の中の少ない荷物を整理して、どれを持って行くかと悩んでいると、いつものようにヒューゴが遊びにやって来た。
「やっ、何してるんだい?」
「今は荷造り中であります。鎧に兜に毛布に……着替えは奥様に頂いたので、荷物が去年より多くなりました」
「そっか。夏のこの辺りも案内したいんだけどな」
「夏にはどんな農作業をするのでありますか?」
「農作業以外もするよ。僕の事なんだと思ってるんだ。他にも色々楽しい事を知っているからね」
ヒューゴと楽しく談笑出来る程度には、2人の関係は打ち解けたもの。
ローリーが荷造りをしつつ、ヒューゴが横から好き勝手に喋り続ける。
こうなると単純な作業よりかは、幾らか彩りがあり退屈せず……やがて最後の荷物へ。
ローリーはそれをどうするべきか悩み、丁寧にテーブルの上に置いた。
「なんだい、ソレ」
「絵であります。自分のお母さんらしくて」
「大切な物だろうに、置いて戦場に行っちゃうのか」
「汚れたりしたら困るので……それに」
「それに?」
ローリーは頭を掻いたり、耳を伏せたりして恥ずかしがる。
続きは照れくさそうに、小さな声で。
「ここに置いておけば、この場所が自分の帰る家になるのかなと思いまして……」
「ふーん」
ヒューゴは納得したのかしていないのか、曖昧に頷く。
そしてテーブルの上の断片を、触れずにじっと監察しだす。
「こんな剥き出して置いてちゃ、何があるか分からないよ。僕に任せてくれないかな、良い感じの箱を見繕っておくよ」
「ヒューゴ様……」
「あとさ、ここが君にとって居心地の良い場所なんだったら、帰る場所だって思ってくれよ。僕は妹分が出来て毎日楽しいからさ、そっちもなんか……ほら、良い感じに」
肝心な所で照れ始め、あるいは続きが思い付かずにヒューゴは笑って誤魔化す。
だがその不器用な言葉でようやく、ローリーはこのところ感じているものの正体がようやく分かったのだ。
胸の中に感じる暖かさと、それを失う恐怖について。
「はい……自分は、みなさんに良くしてもらって嬉しいのであります。だから、離れるのが寂しい。最初はここに来て寂しかったのに、今じゃここから離れるのが寂しくて……えっと」
「寂しいと思うなら、ここは君の居場所って事だ。居場所なんてさ、気軽に沢山作っていいんだよ。僕だって自分の部屋の他にも落ち着く場所が沢山ある。選択肢は多い方が良いに決まってる。その中から君が選びたいものを選びなよ」
「選択肢……戦争の季節になれば、会える人が居るんです。ちょっと嫌な事も言うけど、優しい人で。でもここだとヒューゴ様と奥様が居ますから、こっちも好きです」
「それじゃ、ちゃんと帰ってきな。君が耕した畑にどんな作物が育っているのか、帰ってくる頃には確かめられるからさ」
「はい! 絶対、帰ってきます!」
ローリーはまた、必ず、ここへ帰ると決意を固めて戦場へ。
15歳になる年の戦争の季節が始まった。
そして久方ぶりの野営地で、最初にローリーを出迎えたものは──
「決闘だ! その言葉、取り消してもらうぞ……!」
騎士や兵士など野次馬に囲まれて、血走った目をしたケイレブだった。