後継者編・第3話「静止」
世界は、その日、初めて触れられぬ神を知った。 ——そして、その神に最も届かなかったのは。 届きたいと、誰より願った男だった。
戦闘訓練が始まった。
私は、シュンカの力を、この目で確かめておきたかった。知識も弁舌も理想的に染み込んだ。あとは、戦力としての実物が想定通りの規格外かどうか。
訓練場の中央に、シュンカが立っていた。
差し向けたのは、脳無だった。災害級の人造人間。並のヒーローなら、複数がかりでも抑えられぬ化け物。
それが低く咆哮を上げて、白い少年へと突進した。
シュンカは動かなかった。避けもせず構えもしない。ただ面倒くさそうに、その巨体が迫るのを見ていた。
脳無の拳が、彼に触れる——その寸前。
何も起きなかった。
拳は、シュンカの肌で止まった。あるいは滑った。傷一つつかない。
不壊。彼が時を止めたその肉体は、絶対の静止だ。劣化も、損傷も、外界からの干渉も、すべてを拒む。世界のほうが彼に触れることを許されない。
そして、シュンカが気だるげに手を振った。
——脳無が、消えた。
斬られたのでも、潰されたのでもない。触れられた箇所から、欠落していった。在った、という事実ごと。だるま落としのように、上半身が音もなくずれ、崩れ、 災害級の人造人間が、一瞬で、戦線から消え去った。
訓練場の配下たちが、息を呑んだ。
少年は退屈そうに手を下ろした。倒した、という達成感もない。むしろ面倒な作業を一つ終えた、という顔で。
私はしばし言葉を失っていた。
そして、抑えきれなかった。
「……素晴らしい。素晴らしいよ、シュンカ!」
声が、勝手に高ぶった。私はたいていのものに飽いた男だ。美にも、富にも、
人の死にすら、心を動かさなくなって久しい。その私が、柄にもなく両手を広げ、少年へと歩み寄っていた。
「見たか今のを。脳無が、何も出来ずに倒されるところを!触れることも、傷つけることも、何一つ許さない。そして触れれば消える。なんという出来だ。なんという完成度だ!」
配下たちが、私の豹変に戸惑っていた。それも構わなかった。私は歓喜していた。本気で。
シュンカはその熱をまるで意に介さなかった。褒められても彼の水面は、
さざ波一つ立たない。「そう」とだけ、平坦に返した。その無反応すら、今の私には愛おしかった。
その夜私は自室で恍惚に浸っていた。
昼間の歓喜とは、また違う熱だった。もっと、
暗く、甘い。
いずれあれは、私になる。
あの触れられぬ肉体も。あの神の力も。すべて、いつか私のものだ。
あの空っぽの器に私が座る。そうすれば私は完全な不可侵の王になる。
災害級の脅威を一瞬で消し、トップヒーローの攻撃すら届かぬ絶対の身体を得て
世界を見下ろす。
弔の崩壊などもう要らないな、と私は思った。攻撃面でも防御面でも、あの子供はすべてにおいて上を行く。
空の玉座を思い描きながら、私は初めて本気で自らの絶対を確信した。
——その訓練を、死柄木弔は、物陰から見ていた。
呼ばれたわけではなかった。ただ、先生がまたあの白いガキにつきっきりだと聞いて、足が勝手に向いていた。どうせ大したことはないと、思いたかった。確かめて、安心したかった。
だが、彼が見たのは災害級の化け物が、指一本触れられぬまま、塵も残さず消える光景だった。そしてその背に注がれる、先生の「素晴らしい」という、蕩けるような声。
あんなに声を高ぶらせた先生を自分は、見たことがなかった。
見たことのない顔だった。あんな声を、あんな表情を、自分はもうずっと向けられていない。
胃の底から、黒いものがせり上がってきた。
数日後、地下の通路で死柄木は、初めてその子供と正面から向き合った。
「おい。お前が例の拾われ子か」
白い髪。赤い瞳。噂に聞いたとおりの、不気味な容姿だった。
「先生がご執心らしいな。ふん。どうせ、まぐれだろ。お前なんか——」
「……あなたは」
シュンカが平坦に遮った。
「崩壊しか、できないんですよね。算術も、話術も駄目で。だから先生に慰められてる。——大変ですね」
それは煽りですらなかった。ただ、事実の確認。何の感情もこもらぬ、観察だった。
だが、死柄木には、それが最も効いた。図星を、温度のない声で淡々と並べられる。怒りをぶつけられるより、嗤われるより、ずっと深く抉られた。
「……っ、このクソガキ!」
死柄木の手が伸びた。崩壊。触れたものを塵に変える力。この世に、壊せぬものなどないはずだった。
その五本の指が、シュンカの肩を掴んだ。
何も起きなかった。
崩れない。塵にもならない。シュンカはただ静かに、掴まれたまま、死柄木を見ていた。
不変。崩壊という変化を、完全に拒む絶対の静止。死柄木の最強の手が、生まれて初めて、空を掴んだ。
「な……んで」
何度触れても、同じだった。最強であるはずの自分の力が、この少年には、そよ風ほどの意味も持たない。シュンカの赤い瞳に怒りはなかった。敵意もなかった。脅威とすら思っていない。ただ、道端の石を見るような、徹底した無関心だけがそこにあった。それが何より死柄木を抉った。
「やめなさい」
私が、来た。
声を聞くなり、死柄木はぱっと顔を上げた。その目に、一瞬、期待の色が差した。先生が、来てくれた。見てくれた。自分を——。
「弔。——お前は、年上だろう」
その一言は死柄木の期待を根元から断ち切った。
「年下の子に手を上げるなんて。恥ずかしいとは思わないのか」
私は弔を冷たく見据えた。年上のくせに。年下相手に。その響きが空気に滲んだ。
死柄木は何も言えなかった。反論のしようがなかった。確かに自分は年上だ。確かに年下に手を出した。正論だった。ぐうの音も出ない、正論だった。
だが、その正論こそが、最も深く、彼を抉った。
——年下。
そうだ。あいつは年下だ。後から来た年下のガキだ。なのに。なのに、その年下に自分は力でも才能でも先生の目でも、何もかも抜かれている。
「年下に手を上げるな」という言葉は、そのまま、
「お前は年上のくせに、その年下にすべて負けている」
という、宣告だった。
一番言われたくないことだった。それを叱責の正論に包んで、突きつけられた。
そして、私は弔にはもう構わず、シュンカのもとへ歩み寄った。掴まれていたその肩に、そっと手を添える。労わるように。
「すまないね、シュンカ。怖かったろう。——年上の子に、乱暴をされて」
わざわざもう一度。年上の、と。
シュンカはきょとんとしていた。怖くも、痛くもない。「べつに」と、平坦に返すだけだった。それでも私は、その白い髪を、慈しむように撫でた。大切な大切なものを扱うように。弔の目の前で。
死柄木は通路に立ち尽くしていた。
叱られた。庇われた。年下に負けた年上として断罪された。
そして、見られなくなった。先生の世界に、もう自分は映っていない。映っているのは、あの白い、年下のガキ、ただ一人。
「……っ」
声にならなかった。
「下がっていなさい、弔」
私は振り返りもせず言った。邪魔なものを、片付けるように。
死柄木は、踵を返すしか、なかった。
その背を見送りながら、私は内心で、算盤を弾いていた。危なかったと。
万が一この器に致命的な傷でもつけられていたら。あの少女を巻き込まれでもしたら。心臓も、鎖も、すべて消える。神の電源が落ちる。大損害ではすまない。
あの少女にだけは、絶対に触れさせるな。私は首輪を巻き直した。死柄木にではなく、状況そのものに。
それは、最も賢い判断だった。ただ——その引き金を、いつか自分の手で引くことになるとは、私は、気づいていなかった。
通路の暗がりで、死柄木弔は、握りしめた手を、震わせていた。
届かなかった。あの年下のガキにも。先生の視界にも。何一つ、届かなかった。