後継者編・第六話「欠落」
三年かけて、男は完璧な器を育てた。 ただ一度の過ちを犯すまでは。
——その器が、最初から、誰のものだったのか。 男は、消える間際にようやく知った。
その夜、私は一人上機嫌だった。
計画はすべて煮詰まっていた。最強の器は完成した。鎖も握っている。
あとは、仕上げの一手をどう打つか。それを思案するのは、久しく忘れていた、愉しみだった。
ふと、一つの趣向が頭に浮かんだ。
オールマイト。私の、生涯の宿敵。あの忌々しい平和の象徴を、どう始末してやろうか、と。
ただ殺すのでは、芸がない。私は、もっと、美しい筋書きを、思いついた。
——シュンカに、殺させればいい。
あの空っぽの器に。私が拾い私が育てた、あの子供に。オールマイトを殺させる。
考えるほどに私はその構図の美しさに、酔った。
オールマイトは、ヒーローだ。子供を守る者。弱きを救う正義の象徴。その男が
——救うべき、まさにその子供の手で、殺される。守ろうとした相手に、屠られる。
これほど、滑稽な喜劇が、あるだろうか。
私は、声を上げて、笑った。誰もいない部屋で。
「ふ……ふは!傑作だ!」
救済者が救うべき子供に、殺される。正義が、その正義で守るはずの存在に、
屠られる。その顔を想像した。オールマイトが、自分を殺す相手が、
まだ十の子供だと気づいたときの、あの絶望の顔を。たまらなかった。
私は、長く生きすぎて、たいていの趣向に飽いていた。だが、これは違う。久々に、心が躍った。あの象徴の、最後の表情を、特等席で見物してやろう。私が拾った子供の手で、私の宿敵が無様に死ぬ。
なんと、満ち足りた夜か。
私は微笑みを浮かべ、その喜劇の幕開けを心待ちにした。
——救うべき子供に、殺される。
その言葉を、私はただオールマイトのものだと、信じて疑わなかった。
数日後の夜に、その喜劇の主役が、誰にすり替わるのかも知らずに。
私自身が、拾い育てた子供の手で無様に消されることも。何一つ、見えてはいないまま、私は、笑い続けていた。
その夜は突然、来た。
ヒーローたちが、拠点を突き止めたのだ。
神野区。住宅街の夜を引き裂いて、トップヒーローたちが降り立った。オールマイトを先頭に。包囲は、完璧だった。長く闇に潜んでいた連合の牙城が、ついに白日の下に引きずり出された。
戦闘が、始まった。私と、ヒーローたちが、ぶつかり合う。瓦礫が飛び交い、爆発が夜を染め、神野の街が、戦場と化していく。
その一角に、シュンカがいた。
彼にとって、この戦いに意味などなかった。ヒーローも、連合も、どちらが勝とうが、どうでもいい。彼がここで戦っているのも、私に従っているのも、すべては、ただ一つの約束のためだった。ミカとずっと一緒にいる。そのために面倒な作業を、こなしている。それだけだった。
ミカは、少し離れた後方にいた。神の電源として。
そして——私は、追い詰められていた。
包囲は、厚い。オールマイトの拳が、迫る。私の計算が、軋み始めていた。この戦力では、押し切られる。私の肉体は、もはや、全盛ではない。
頭に、一つの考えが、閃いた。
今こそ、あの神を、完全に振るわせるときだと。
そのためには、絶対の支配が要る。一片の抵抗も許さぬ、完全な服従が。
甘い言葉では、もう足りなかった。鎖を、そっと引くだけでは。
私は——握っていた鎖を、ついに、本気で引いた。
戦場のただ中で、私はミカのほうへ手を伸ばし、その小さな腕を掴んだ。少女を引き寄せ、シュンカの見える場所で、盾のように、人質のように、前へ突き出した。
「シュンカ! すべてを薙ぎ払え! 今、ここで! ——さもなくば。この子が、どうなるか。分かるな?」
それは、最後の仮面が、落ちた音だった。
言葉だけの脅しでは、なくなった。私の手は、今、確かに、ミカにかかっていた。
線を、越えた。
——その瞬間。
世界が止まった。
シュンカの手が下りた。
ヒーローも、連合も、オールマイトも。神野の戦場のすべてが、彼にとって、もう、どうでもよかった。最初からどうでもよかった。
シュンカの赤い瞳が、ゆっくりと、私へと向いた。
怒りは、なかった。昂りも。憎しみすら。ただ——静かな認識だけが、あった。三年、数えてきた数字が、今、最後の一つに達した、という。
「……ずっと、一緒にいられるって」
平坦な声だった。戦場の喧騒の中で、なぜか、はっきりと響いた。
「あなた、言いましたよね。あの日。——僕が訊いたら。『勿論さ』って」
私の顔から、血の気が引いた。
三年前。孤児院で軽く口にしたあの安い肯定。何の対価も伴わぬと思っていた、たった一言。あの「勿論さ」が、今、請求書として、私の目の前に突きつけられた。
「約束が、違います」
それがすべてだった。
恨みでも復讐でもなかった。ただ、契約の不履行。それだけの理由で、空っぽの神が、初めて、本気で動こうとしていた。
線が越えられた、その瞬間、シュンカは動いた。
誰の目にも留まらぬ速さで。数千倍に加速した肉体が、神野の夜を貫いた。
ヒーローたちにも、連合にも、私にすら、それは見えなかった。ただ、次の瞬間には、彼はもう、そこにいた。
ミカを掴む腕の、すぐ傍に。
シュンカの白い指が、その腕の根元に、肩の付け根に、触れた。
斬り落とされたのではなかった。ただ、在ったという事実ごと、世界から欠落した。だるま落としのように。そこにあったはずのものが、「最初から無かった」ことになった。
ミカを掴んでいた力が、霧散した。少女が、解き放たれた。
シュンカは、もう一方の手で、そっとミカを引き寄せ、自分の背後へ回した。乱暴にではなく、ただ確実に。殲滅のただ中で、その一つの所作だけが、異様なほど、静かで、優しかった。
「……平気?」
「……うん」
短いやりとり。それだけ確かめて、シュンカは私に向き直った。
冷たく、淡々と。もう一度、手を伸ばす。今度は、私の脚へ。
——消えた。支えを失った巨体が、傾ぎ、倒れる。
そして、シュンカは、残ったもう一方の腕にも、触れた。
——消えた。三つ、欠落した。
世界で最も多くの個性を束ねた私が、今、両腕を失い、片脚を失って、地に転がっていた。
私は、反射的に再生しようとした。あらゆる個性を束ねた、その規格外の回復力で。
何も、起きなかった。
生えてこなかった。修復できなかった。
力が、残っていなかった。ヒーローたちの猛攻に、長い夜を削られ、私の肉体は、もう全盛にはほど遠かった。満身創痍の、その上に、両腕と片脚を、立て続けに失った。本来なら、束ねた個性のどれかで繕えたはずだった。だが、そのどれを引き出す力も、今の私には、もう、残っていなかった。
規格外の回復力は、規格外の余力があって、初めて働く。その余力を、私は、この戦いで、とうに使い果たしていた。
「ま、待ちなさい!」
私は、命乞いを始めていた。
「ミカを傷つけるつもりは、なかったんだ!あれは——ただの...鞭だ。馬を駆るための。お前を動かすための、方便だよ!本気で害するつもりなど、なかった!」
掠れた声で、残った言葉の力を、振り絞って。
「シュンカ、考え直しなさい。私の後継者となれば、お前は全てを支配できる。世界も、力も、お前が望むものは、何でも——」
「ミカは、薪じゃない」
シュンカが、静かに遮った。
「鞭でもない。馬を駆る道具でもない。——あなたは、それを最後まで分からなかった」
「シュンカ……!」
「あなたが死ぬ理由は、一つだけです」
静かに。けれど、覆しようのない響きで。
「——あなたが、ミカにとって、危険だから。それだけ」
私の目が、見開かれた。
そこに、付け入る隙は、一つもなかった。
もし、シュンカが怒っていたなら。憎んでいたなら。まだ、交渉の余地があった。感情には、付け込める。恐怖にも、欲にも。だが——この子供には、何もなかった。
これは復讐ではなかった。処刑ですらなかった。
ただの、除去だった。
あの子に危ういものを、取り除く。床のガラスの破片を、片付けるように。蜂を、追い払うように。何の感情も込めずに、淡々と、あの子の世界から、危険を一つ、消す。それだけ。
私は、悟った。最後に。
これには、何も効かない。言葉も、富も、力も、命乞いも、脅しも、誘惑も。
——感情のない無関心には、何一つ届かない。あの子に危ういと判定された、その一点で、すべては終わっている。
そして——もう一つ、私は、理解した。
空の玉座だと、思っていた。何も座っていない、清らかな空白だと。だから、いつか私が座れると。三年、丹精込めて、注いできた。いずれ私が移り住むための、誰もいない器だと、信じて。
違った。
そこには、最初から座っているものがあった。あの少女が。私が、ただの鞭と呼んだ、その子が。三年注ぎ続けた黄金など、一片も届かなかった玉座の、ただ一人の主として、ずっとそこにいた。
私には最初から、一片の権利もなかったのだ。
「……あ」
絶望が、私の顔を、覆った。
すべてを奪ってきた私が。すべてを束ねた私が。生涯で初めて
——何もできぬまま、何も効かぬまま、ただ、片付けられる危険物として、終わりを、迎えようとしていた。
数日前、私が笑った、あの喜劇を、思い出した。
救うべき子供に、殺される——。
ああ。あれは。
オールマイトの、ことでは、なかった。
シュンカが、手を伸ばした。
最後の、欠落。
世界で最も多くの個性を束ねた私は、斬られも、潰されもしなかった。ただ——「無かったこと」に、なった。在ったという事実ごと。神野の夜から。世界から。歴史から。戻すべき過去ごと。
消える。
絶望を顔に貼り付けたまま。
私が拾い、私が育て、私が殺させようとした、その子供の手で。私自身が、あの喜劇の、主役だった。
——救うべき子供に殺される、男の。
オール・フォー・ワンは、最初から存在しなかったかのように、崩れ去った。
シュンカは、手を下ろした。彼はそれを見もしなかった。勝利にも、復讐にも、興味はなかった。
彼は、ただ、背後を振り返った。少女の無事だけを、確かめるように。
危険は、取り除かれた。あの子の世界から、一つ。
それで、十分だった。彼にとっては。