第16話「夜へ」
僭帝編・第一話「夜へ」
英雄は手を伸ばした。 待て、と。その声は、子供を捕えるためではなかった。 救おうとして、震えていた。 けれど夜は二人を先に攫っていった。
神野に、静寂が落ちた。
世界で最も強い男のいた場所には、もう、何もない。崩れた瓦礫と、夜気と、立ち尽くす者たちの息遣いだけ。誰も動けなかった。
今、目の前で何が起きたのか、頭が、それに追いつけずにいた。
最初に動いたのは、オールマイトだった。
「待て——!!」
彼は、手を伸ばした。
けれどその手は、ヴィランを捕えようとする手ではなかった。
子供を引き止めようとする手だった。たった今魔王を討った、その小さな背中を、どうにかこちら側へ。救おうとする手。
力を失いかけた身体で。間に合わないと分かっていても。それでも彼は、踏み出していた。
僕は、振り返らなかった。あの英雄も、僕には遠い窓の外の人だった。行く先は、最初から一つしかない。
瓦礫の影に、ミカが立っていた。この騒ぎのあいだ、ずっと安全な場所で、僕を待っていた。僕を見つけても、彼女は何も訊かなかった。
ただ、いつものように、少しだけ不機嫌そうな顔で、こちらを見上げただけ。
僕はその手を取った。たった今、世界で最も強い悪を世界から消した手で、彼女の小さな手を、そっと包んだ。
「行こう」
ミカは頷いた。それだけでよかった。
夜が僕らを迎え入れる。オールマイトの伸ばした手も、その声も、すべてを背後に置いて。僕とミカは、闇の中へ溶けるように消えた。
全世界は知った。たった今、一人の子供が魔王を殺し、夜へ消えたことを。
逃亡の、最初の夜。
灯りの乏しい、狭い廃ビル。世界の全てを敵に回した二人にも、それでも
夜露をしのぐ屋根は要る。ミカは、膝を抱えて、壁にもたれていた。僕は、その隣に座っていた。
長い沈黙のあとで、ミカが口を開いた。
「ねえ」。膝に顔を半分埋めたまま。
「なんで、殺したのよ」
訊いてくるとは思っていた。あの男は、善くも悪くも、僕らを育てた人間ではあった。ミカにとっても、ひと言では片づかないものは、あっただろう。
僕は、少しだけ間を置いた。けれど、答えは最初から一つしかなかった。本当は、考える必要すら、なかった。
「ミカのためだよ」
ごく当たり前のことを言うように、僕は答えた。空が青いとか、夜が暗いとか。そういうことを口にするのと、同じ調子で。
ミカが、顔を上げた。何か言いかけて、やめて、また視線を膝へ落とす。
「……ふぅん」。ぶっきらぼうな相槌。けれど、その横顔が、ほんの少しだけ和らいだのを、僕は知っていた。
それでよかった。世界の全部を敵に回しても。この子が隣で、少しだけ安心して目を閉じられるのなら。僕には、それで十分だった。
同じ夜。
ヒーローたちは、眠っていなかった。
緊急会議。AFOの死という、本来なら歓声が上がるはずの報せ。けれどその部屋に、勝利の色はなかった。誰の顔にも、安堵ではなく緊張だけが貼りついていた。
「……笑えねえな」。
畳んだ羽根のまま、ホークスが口を開いた。
「最悪の脅威が消えた。なのに、状況は、前より悪い」
オールマイトのあの報告。世界最強のヴィランを、軽く手を振っただけで屠った子供。そして、夜へ消えた、もう一人の子供。二人の存在が、会議室の空気を凍らせていた。
「あの二人を、一刻も早く保護する。最優先でだ」
ホークスが続けた。声に、焦りが滲んでいた。
「分かるか。あいつらは今、『AFOを殺した』っていう、デカい看板を背負ってる。裏社会から見りゃ、あれは剥き出しの金塊だ」
誰かが拾う。必ず。あの力を、あの伝説を、欲しがらない組織など、一つもない。先に手にした者が、世界の天秤を丸ごとひっくり返せる。
「俺たちが、先に届かなきゃならない」
ホークスが、テーブルを軽く叩いた。
「保護なのか。確保なのか。それとも——」言いかけて、彼は口をつぐんだ。
その先を、部屋の誰もが聞いていた。聞いていながら、口にする者はいなかった。やがて、ベストジーニストが、静かにそれを引き取った。
「もし。排除という言葉が、頭の片隅にでもあるのなら」。
彼は、一語ずつ置くように言った。
「論外だ。今この場で、その考えを消しておくべきだ」
「同感だ」。
低く、エンデヴァーが応じた。腕を組んだまま。
「相手が何をしようと、子供だ。ヒーローが子供を殺す。それをやった瞬間、俺たちは、俺たちが狩ってきた連中と、何も変わらなくなる」
「ええ」。ベストジーニストが頷く。
「それ以上の問題もある。ヒーローが子供を手にかけた。その一行が報じられた瞬間、『ヒーロー』という言葉は意味を失う。私たちが何十年もかけて積み上げてきた社会が、たった一日で終わる」
保護が前提。排除は論外。その一線だけは、部屋の総意として固まった。
「……問題は、そこじゃないんだ..」。ホークスが、髪をかき上げた。
「どうやって、だよ。あの報告を信じるならな。あの子は、世界最強の悪を、虫でも払うみてえに消した。捕まえる? 守る? そもそも、向こうが救われたがっちゃいないとしたら?」
その問いに、答えられる者はいなかった。
ずっと黙っていたオールマイトが口を開いたのは、その時だった。
「……私だ」
痩せ細った身体を、折り曲げるように。かつて平和の象徴だった男は、絞り出した。
「私があの子たちに。AFOを殺させてしまったんだ」
部屋が、静まり返る。
あの場に、私がいなければ。いや。もっとずっと前から。あの子たちが、あんな男に拾われ、兵器として磨かれていく、その何年ものあいだ。
ヒーローは——私は、どこにいた。誰一人、あの子たちに手を差し伸べられなかった。救えなかった。守れなかった。だからあの子は、自分の手で、自分の一番大切なものを守るしか、なかったのだ。
「あの子を、ヴィランにしたのは」。オールマイトの声が、震えた。
「……私たち、なんだよ」
誰も、何も言えなかった。引いたばかりの一線が、急に、ひどく重く感じられた。
子供は殺さない。守る。その誓いだけを胸に、英雄たちは、闇へ散っていく。けれど、その誓いが、どこにも届かぬまま空を切ることを。この夜の彼らは、まだ知らなかった。