僭帝編・第3話「犬」
飼い犬は、首輪を欲しがらない。
野良は餌を求めて牙を見せる。
けれど、この子供は。
自ら首輪を差し出して、なお、何も求めなかった。
神野から幾日が過ぎただろう。
僕とミカは夜から夜へと、渡り歩いていた。
世界の全部を敵に回した二人に、長く留まれる場所はない。だが、それも長くは続けられない。
ミカが疲れていた。口には出さないが、分かる。安心して眠れる場所が要る、
守るための、力が要る。金も後ろ盾も。
僕一人なら何も要らなかった。けれどミカがいる。だから要る。
考えた末に僕は一つの扉の前に立っていた。
港の倉庫街。潮と錆びた鉄の匂い。死穢八斎會。この界隈を仕切る極道の一派。古い血の掟で動く危険な連中。だが危険であるほど力はある。
「……ここ..本当に入るの」
隣で、ミカが、僕の袖を、軽く引いた。
「うん。すぐ済む」
僕は、扉を開けた。
むっとする煙草の煙。中にいた男たちが、いっせいに、こちらを向いた。子供が二人。
場違いもいいところだ。誰かが笑った。誰かが舌打ちをした。
「迷子か坊主。ここはガキの来る——」
「オーバーホールに会わせてほしい」
僕が言うと、男の声が、途切れた。
空気が変わった。子供が、頭の名を知っている。しかも、呼び捨てに。男たちの手が懐へ伸びかけた。剣呑な気配がぴりりと肌を刺す。
その時だった。
「——通せ」
奥から声がした。マスクで口元を覆った、若い男。死穢八斎會を束ねる、オーバーホール。治崎廻だ
男たちが戸惑いながらも、道を開ける。
僕はミカの手を引いて、その前に進み出た。
オーバーホールは、しばらく僕を見ていた。値踏みするような冷たい目。やがてその目がわずかに、細められた。
「お前か。AFOを殺したのは..」
噂は、もう、ここまで届いている。当然だ。世界最強の悪が一人の子供に消された。
その報せは裏の世界を駆け巡っている。
「用件は」
「雇ってほしい」
僕は言った。
「用心棒でもなんでもいい。僕は役に立つ。その代わり金と寝床を。彼女と二人ぶん」
短い、沈黙。
誰かが息を呑む音がした。AFOを殺した子供が、頭を下げて下働きを願い出ている。その光景の異常さに。
オーバーホールは、答えなかった。
ただ僕を見ていた。布の下の表情は読めない。長い沈黙。やがて彼はふっと息を吐いた。
「断る」
短い、一言だった。
「悪いが、お前は飼えない..」
その声に侮りはなかった。むしろ慎重だった。
彼は、懐から札束を取り出すと無造作に僕の足元へ放った。
「三十万ある。持っていけ。宿の何泊か、それで足りるだろう」
僕はその札束と彼の目を交互に見た。
雇わない。なのに金は渡す。理屈が合わない。
「なぜ」
僕が問うと、オーバーホールは、わずかに、首を傾けた。
「確かにお前たちは..上手く使えれば価値はあるだろう..だが、俺は御せない犬は飼わない主義でな」
彼は、淡々と続けた。
「かといって追い返して、恨まれても寝覚めが悪い。AFOを殺った怪物を敵に回す? それこそ悪夢だ」
だから、金を渡して穏便に帰す。雇いもせず、敵にもせず。間合いを保つ。
——それが、この男の、出した答えだった。
賢い判断だと思った。この男は自分の器を正しく、測っている。手に負えないものには手を出さない。僕という存在の危うさを誰よりも理解していた。
「分かった」
僕は札束を拾った。要らない、と突っぱねるほど、僕は潔癖ではない。ミカのために使える金ならなんでもいい。
「邪魔しました」
僕は、ミカの手を引いて踵を返した。背後で、男たちのざわめきが聞こえた。
あのガキ、本当に、AFOを——。声が潮風に溶けていく。
扉を、出る。夜気が頬を撫でた。
「……雇って、もらえなかったね」
ミカが、ぽつりと、言った。
「うん。でも金は手に入った。次を探す」
僕はそれだけ答えた。焦りはなかった。手はいくらでもある。ミカを守れるなら誰の下につこうと、構わない。王の座になど興味はない。
僕が欲しいのは、ただこの子の安全だけだ。
その話は、すぐに、裏社会を、駆け巡った。
AFOを殺した子供が死穢八斎會の門を叩いた。
用心棒に雇ってくれと。頭を下げて。そして、
オーバーホールに、体よく追い返された——。
噂は尾ひれをつけて広がっていく。
ある者は、笑った。最強の力を持ちながら、極道の下働きを願うとは、頭の足りないガキだ
と。ある者は、訝しんだ。何か、裏があるのではないか、と。
だがその噂を、まるで違う角度から、聞いていた男がいた。
歌舞伎町。とあるビルの、最上階。 エディは、グラスの酒を、揺らしながら、その報告を、聞いていた。
「……ほう」
二メートルを超える、巨躯。覇王と呼ばれた男は目を細めた。
「AFOを殺したガキが、自分から、極道の犬になろうとした、か」
隣でイズナがけらけらと笑った。
「面白ぇだろ? せっかくの看板が、自分から、下につこうとしてんだぜ。バカなのか、あのガキ」
「いや」
エディは、グラスを置いた。
「逆だ」
その目が酒の揺らぎを越えて、どこか遠くを見据えていた。
「考えてもみろ。AFOを殺せる力だ。その気になりゃ、この街も、国も、好きにできる。誰もが、そう思う。なのにあのガキは——自分から、極道の下につこうとした」
エディは、ゆっくりと続けた。
「巧妙な野心家なら、絶対に、やらん。力を隠し、機を待ち、いずれ全部を、奪いにかかる。それが、利口なやり方だ。だが、あのガキは、真逆をやった。これ見よがしに、頭を下げて、下働きを願った」
「……つまり?」
「野心が、ねえのさ」
エディの声に、確信が、滲んだ。
「あいつは頂点になんざ興味がねえ。力を振るう気も。ただ——何か、たった一つ、守りたいものがあるだけだ。そのために、力が要る。後ろ盾が要る。だから、頭を下げた。それだけのことだ、まぁガキで世間知らずってのも、あるかもしれんが」
イズナが、にやりと、笑う。
「で? その『たった一つ』ってのが——」
「ガキは、二人組だったらしい。男と、女の子と」
エディは、グラスの底に残った酒を見つめた。
「分かりやすい話さ。あいつの欲しいものは、最初から、一つしかねえ」
エディは、グラスを干した。
ならば話は早い。その「一つ」をこちらが握ればいい。守ってやるとそう持ちかければ——あの最強の看板は、自ら首輪に首を通す。
犬は首輪を欲しがらない。けれどこの犬は。
たった一つの宝のためなら、自ら、繋がれにくる。
「——イズナ。あのガキの、塒を探せ」エディは立ち上がった。
「会いに行く。王に、な」
窓の外、歌舞伎町のネオンが、滲んでいた。
誰よりも早くその手を伸ばそうとする者が。今、動き始めた。
——救おうとする者たちより、ずっと、早く。