僭帝編第6話「磁石」
かつて、世界を支えた背中が。
今は、震えて泣いていた。
——その肩を支えたのは。
かつてその背中に憧れた、少年だった。
緑谷出久が事務所の扉を開けたとき、そこにいたのは、膝をついたままうなだれるオールマイトの姿だった。痩せ細った肩が小刻みに震えている。
「オールマイト……?」
声をかけて緑谷は息を呑んだ。かつて平和の象徴と呼ばれたその人が、泣いていた。
「……緑谷少年か」オールマイトは顔を上げなかった。「すまない。情けないところを見せたな」
「そんな……」緑谷は駆け寄りその傍らに膝をついた。何を言えばいいのか分からなかった。ただ、震える背中にそっと手を添えることしか。
「……見つからないんだ」絞り出すような声だった。「あの子たちがどこにも。何日捜しても。私のこの手は、また何にも届かない」
堰を切ったように、オールマイトの言葉が溢れ出した。
「分かるか緑谷少年。あの子たちにAFOを殺させてしまったのは——私なんだ」
緑谷が息を止める。
「私があの場にいたから。私が追い詰めたから。あの子は、自分の手であんなことを。そして、その罪も、その看板も世界中からの追っ手も。何もかもを、あんな小さな子供に私が背負わせてしまった」
涙が、皺の刻まれた頬を伝う。
「いや……違う。もっと前からだ」オールマイトは自らを責めた。
「あの子たちがあんな男に拾われて、兵器として磨かれていく、その何年もの間。私は——ヒーローは、どこにいた。もっとずっと前から、助けるべきだったんだ。
誰かがあの子たちに手を差し伸べていれば、こんなことには……っ」
言葉が、嗚咽に呑まれる。
緑谷の目にも涙が滲んでいた。師の痛みが、そのまま自分の痛みのように胸を刺す。
けれど彼は、泣きながら首を横に振った。
「……オールマイトのせいじゃ、ないです」。震える声で。「でも——もし誰も間に合わなかったって言うなら。今からでも、いいはずです」
オールマイトが顔を上げる。
「僕が必ず見つけます。その子たちを」。緑谷の潤んだ瞳に、確かな光が灯っていた。「そして——倒すんじゃない。捕まえるんでもない。救うんです。今度こそ。誰かがその手を掴んでみせる。僕が」
その言葉が、少しだけ、オールマイトの震えを止めた。
窓の外は、まだ暗かった。
救おうと誓う者が、ここにいる。——けれどその子供は、すでに闇の最も深い場所で、利用価値のある「駒」として、囲い込まれていた。
救いの手とその子供の間には、まだあまりにも長い夜が、横たわっていた。
ひとつの名前が、磁石になる。
それを掲げれば、人も金も、勝手に集まってくる。
——けれど、その名の主は。
そのどれにも心を動かさなかった。
会議は、僕の頭越しに進んでいった。
「さて。幹部は揃った」イズナが煙草を咥えたまま言う。
「次は、まず人を集めるか。手足になる兵隊が要る。組織ってのは、頭と剣だけじゃ回らねえからな」
「造作もない」エディが葉巻の灰を落とした。
「AFOを殺した人間が頂点に座る組織だぞ。人材には困らん。野心のある奴も、腕に覚えのある奴も、皆こぞってこの旗の下に群がってくる。あの男が死んで空いた席を、我々が丸ごと呑み込む」
蔦漆が、静かに頷いた。
「金も同じだ」。淀みのない声で、彼は言った。「この看板さえあれば、シノギも縄張りも向こうから転がり込んでくる。逆らえる者はいない。莫大な富になる。乗らない理由がどこにもない」
名前。人。金。権力。——男たちは僕の名を掲げて、みるみる大きな絵を描いていく。やがてこの国の裏のすべてが、僕の足元にひれ伏す絵を。
僕はその様子を、ただぼんやりと眺めていた。
帝国も、富も、頂点も。僕には何の興味もなかった。彼らが何を築こうと、
どれだけ大きくなろうと、僕にとってはただの風景に過ぎない。
僕が見ていたのは、部屋の隅で出された菓子を所在なげに齧っているミカの姿だった。ここでは誰も彼女を狙わない。今夜も彼女は安全だ。
——それだけが、僕にとっての唯一の価値だった。
「——ボス。あんたも、何か望みはあるか」
ふと、イズナがこちらに水を向けた。利用価値のある駒に、一応の敬意を払うように。
僕は少し考えて答えた。
「特に。——ミカが安全なら、あとは好きにしてください」
イズナがふっと笑った。「欲のねえガキだ」
それをただの子供の世間知らずと受け取ったのだろう。エディも蔦漆も、誰も気には留めなかった。
こうして、僕の名を看板に、「僭帝」は膨れ上がっていく。
人が集まり、金が流れ込み、剣が研がれていく。裏社会の新たな巨大な王国が——たった一人の子供の無関心の上に、静かに築かれていった。
「見せてくれ」と、男たちは言った。
看板の中身を、確かめるように。
——次の瞬間。
彼らは、看板を見くびっていた自分を恥じた。
僭帝の初仕事は、空いた玉座を同じく狙う、別の一派を潰すことだった。
武装した数十人。裏の世界では、それなりに名の知れた連中らしい。けれど幹部たちは、誰も本気で構える気はなかった。
「——頭目。ひとつ、力を見せてもらおうか」
アル・カイドが、ぎらついた目で言った。「かねて、確かめたかった。あのAFOを屠ったというのが、真実かどうか。——この目で、な」
チェインも、無言のまま僕を見ていた。試すような目で。看板の中身を見定めようとする目。
ミカは後ろで、つまらなそうに欠伸をしていた。彼女だけは知っている。——わざわざ見るほどのものでもない、と。
別に構わなかった。ミカの安全に関わる仕事なら、さっさと終わらせるだけだ。
僕は前へ出た。敵の銃口が、一斉にこちらを向く。怒号。引き金。
——けれど、そのすべてが、僕に届く前に止まった。
目の前の空気の時間を止めた。もう弾は、ただの宙に浮いた鉄屑だ。僕はその間をゆっくりと歩いた。汚れ一つつかない。傷一つ負わない。そして、軽く手を振るう。
触れた空気が飛ぶ。それだけで、最前列の数人が、糸の切れた人形のように後方へ吹き飛んでいった。立っていた者は、いつの間にか倒れている。何が起きたのかも分からぬまま。
数十人の武装集団は、ものの数十秒で、ただの静かな瓦礫の山に変わっていた。
僕は振り返った。ゆっくりと。退屈そうに髪を払いながら。
幹部たちは、言葉を失っていた。
チェインは仏頂面を忘れて、目を見開いていた。あの武人が。「あれが……手を振っただけ、だと……?」
アル・カイドの目が、ぎらぎらと光を増す。「……本物だ。本物の力。聞いていた以上の——」
蔦漆は、頭の中の算盤を何度も弾き直していた。看板どころではない。この戦力は、途方もない価値だ。
イズナとエディでさえ、AFOを殺したと聞いてはいたが、実際にそれを目の当たりにするのは初めてだった。
「……想像以上だな」エディが低く呟いた。葉巻を握る指に、ほんの僅か力がこもる。「これは——とんでもない拾い物をしたかもしれん」
誰もが、僕を見る目を少しだけ変えた。けれど——それはまだ、「とんでもない駒を手に入れた」という驚きに過ぎなかった。
僕の方は彼らがどんな目で僕を見ようと、何も変わらなかった。手をはたいて、ミカのもとへ戻る。「終わったよ」ミカはこくりと頷いた。
——王の力の片鱗が、初めて配下の前に晒された。見くびりは、畏怖に変わる。