僭帝編・第九話「剣」
尊敬は、まだ忠義ではなかった。
——けれど。その少女を守って倒れる、その刹那。
武人は知った。己の剣はとうに。
捧げられていたことを。
その日、シュンカは隠れ家を離れていた。
遠方の取引にどうしても出向く必要があった。半日で戻る。ミカには、チェインとセイレーンを残していった。組織でも指折りの戦力。二人がいれば、まず間違いはない。そう踏んでいた。
——その隙を突かれた。
襲撃は、昼下がりに起きた。
僭帝の急成長を疎んだ、どこかの一派。武装した刺客の群れが、手薄な時を狙って、隠れ家へ雪崩れ込んできた。
「——お嬢 下がってろ」
チェインは、考えるより先に、動いていた。ミカを背に庇い、前へ出る。身体が、低く沈み、次の瞬間には、最前列の刺客の顎を、拳が撃ち抜いていた。
チェイン・スラッガー。当てた打撃の威力が、際限なく上がっていく拳。一発、また一発と、刺客が宙を舞う。だが——敵は多すぎた。そして、よく訓練されていた。
「セイレーン! そっちは任せる!」
「……分かってる」
セイレーンが、静かに、笛を構えた。
澄んだ音色が広間に響く。その瞬間踏み込もうとした刺客たちが、ぐらりと
足をもつれさせた。視界が歪み方向感覚が狂う。調律。
彼女の音は、人の感覚をたやすく惑わせる。崩れた刺客をチェインの拳が的確に刈っていく。
武人と、自殺屋。前線で殴る男と、音で惑わす女。二人の連携は見事に噛み合っていた。
けれど。
刺客は、退かなかった。次から次へと、湧いて出る。一人沈めれば、二人。二人沈めれば、四人。じりじりと数で押されていく。
チェインの身体に、刃が、掠め始めた。一つ。二つ。それでも、彼は、一歩も退かなかった。
退けば。背後の少女に、刃が届く。それだけは——絶対に、させない。
いつの間にか、チェインは自問すらしていなかった。ただ、この少女を、守る。それが、当たり前のように、彼のすべてに、なっていた。
「セイレーン、お嬢を頼む! 俺が、止める!」
「——っ、無茶を」
セイレーンが、息を呑む。チェインは、一人、刺客の群れの中へ、躍り込んでいった。ミカに、一人も近づけないために。我が身を、盾にして。
幾度目かの刃が、チェインの深くを、抉った。
膝が、折れる。視界が、霞む。それでも彼は、倒れた身体で、なお、腕を広げ、少女の前に、立ち塞がろうとした。
……ここまで、か。
武人として、これ以上の死に場所は、ない。守るべきものを、守って、果てる。悪くない。薄れゆく意識の中で、チェインは、そう、思った。
刺客の刃が、チェインの頭上に、振り下ろされる——その、瞬間。
時が、止まった。
刃も。刺客も。すべてが凍りついたように、
静止する。そして、その間を小さな白い影が抜けてきた。
シュンカだった。
軽く手が振るわれる。それだけで群れていた刺客は、ことごとく地に伏した。
一瞬で。何もかもが、終わっていた。
セイレーンは笛を下ろしたまま、その光景に見入っていた。半日戻らないはずの王が、こんなにも早く。まるで、ミカの危機を肌で察したかのように。
シュンカは倒れたチェインの傍らに、屈んだ。そして、その身体に、触れる。傷の時を、止めるように。崖からチェインの命が引き戻されていく。
「……ミカを守ってくれて。ありがとう」
シュンカはぽつりと言った。いつもの、無表情で。けれどその言葉は、
確かに、チェインに向けられていた。
チェインの胸が、熱くなった。
だが、その前に——ひとつ、分からないことが、あった。
なぜ、だ。なぜ、この王は俺を助けた。
チェインは、ただの駒のはずだった。義理と興味で、集まっただけの
雇われの拳。忠誠を誓ってすらいない。そんな男が、一人戦場で朽ちたところで——王には、痛くも痒くも、ないはずだ。切り捨てて新しい駒を雇えばいい。
それが、道理だ。
なのに。この王はわざわざ戻ってきた。そして、倒れた自分に、屈んで傷の時を止め、命を引き戻した。駒としてではなく。ミカを守った、一人の男として礼まで、言って。
武人として、その意味は重かった。
命を救われた。ならば——その恩義は、返さねばならない。受けた恩を、返さぬまま生きるなど、武人の名折れ。それが、チェインが、生涯、曲げずに来た、筋だった。
——いや。
そこまで考えて、チェインは内心で、苦笑した。恩義だの、筋だの。そんな理屈を、並べ立てるまでもなかった。
もっと、単純で純粋なことだった。
俺はもう。この少女のために、命を投げ出した。考えるより先に迷いなく。恩義を、返すためでも、筋を通すためでもなく。ただ、守りたいから、守った。——ならば、答えはとうに出ていたのだ。「主と仰ぐに足るか」? 馬鹿な。
俺は、もうとっくにこの王に仕えていた。剣が鞘を選ぶように。
チェインは、震える身体を起こし、シュンカの前に、深々と、頭を垂れた。
「……この命。この拳。——以後、あなたの剣だ」。
掠れて、けれど、揺るぎない声で。
「あなたの征く道を阻む、すべてを断つ。そしてミカ様には。二度と、指一本、触れさせはしない」
誇り高き武人が、生涯でただ一人と定めた主に、忠誠を誓った瞬間だった。
尊敬は、忠義に変わった。あの日「まだだ」と留保した剣は、今、確かに、
王の手に、握られていた。
その隣で。
セイレーンは、静かにその一部始終を見ていた。
彼女もまた、この戦いで、迷わなかった。気づけば、ミカを守るために、笛を吹いていた。報酬のためでも、命令のためでもなく。ただ、あの小さな光を、消させたくない——その一心で。
雪解けは、もう、しずくではなかった。
冷えきっていたはずの胸の奥に、確かな熱が、灯っている。八年、凍りついていたものが、溶けて、形を持ち始めていた。守りたい。この二人を。それは、もう、芽生えではなく——彼女の、新しい芯に、なっていた。
セイレーンは、シュンカの前に、片膝をついた。チェインの隣で。
「……私も」。ぽつりと、けれど、はっきりと。
「この音は、あなたたちのために。——あなたの、刃に」
冷えた女の声に、初めて温度が宿っていた。
武人の剣と、自殺屋の刃。打算で集まった二振りが、この日、自らの意思で、王の手に、収まった。