僭帝編・第十話「我が王」
計算は、いつも正しかった。
——ただ一つ、この答えを除いて。
「助けは来ない」。その式だけが、覆された。
なぜなら、王は。損得で、動かなかったから。
蔦漆が、しくじったのは、珍しいことだった。
大口の取引だった。先方が持ちかけてきた武器の調達ルート。旨みのある話で、裏も取った。計算上危険はない。そう、判断した。だから彼は、最小限の供だけ連れて、単身、先方の指定した倉庫へ足を運んだ。
——罠だった。
扉が閉まると同時に、四方から銃口が向けられた。先方は、はなから取引などするつもりはなかった。僭帝の頭脳を生け捕りにする。あわよくば、王の弱点を、吐かせる。それが狙いだった。
「……やられたな」。蔦漆は、両手を挙げながら、低く呟いた。連れてきた供は、すでに、倒されている。「読みが、甘かった」
囲まれている。逃げ道はない。彼は戦闘要員ではない。頭脳で、裏社会を泳いできた男だ。この包囲を、腕力で破ることは——どう計算しても、不可能だった。
ならば、と。蔦漆はもう一つの計算を、始めた。冷静に。淡々と。
助けは、来るか。
答えは——否。すぐに、出た。
ここは敵地の奥深く。誰も、彼が罠にはまったことを、まだ知らない。
仮に知れたとして、僭帝が、危険を冒して、頭脳一人を回収に来るか? 割に合わない。彼自身が、組織を合理で動かしてきた。しくじった駒の回収に、戦力を割くなど、最も効率の悪い選択だ。
それに——あの王が、来るはずもない。
シュンカ。あの子供にとって、自分は、便利な駒の一つに過ぎない。情で動く相手ではない。いや、そもそも——あの子は、ミカ以外の何にも、関心がない。
蔦漆一人の生死など、あの赤い瞳には、映りもしないだろう。
俺を、助けに来る者なんざいない。
それが冷たく、正しい結論だった。
不思議と恐怖はなかった。元々、損得で生きてきた男だ。ここが終わりでも、それも、計算のうち。そう、目を閉じかけた——その時。
空気が、止まった。
銃声も、怒号も、すべてが一瞬で途絶えた。蔦漆が目を開けると、囲んでいたはずの敵が、糸の切れた人形のように、地に伏していた。そして、その静寂の真ん中に——小さな白い影が、立っていた。
シュンカ。
その隣には、なぜかミカもいた。怪訝な顔で、あたりを見回している。
蔦漆は、言葉を、失った。
なぜ。なぜ来た。割に合わない。合理に反する。あらゆる損得を弾いても、この子供が、危険な敵地の奥まで、自分一人のために現れる理由が——彼の明晰な頭脳の、どこにも、見当たらなかった。
しかも——なぜ、ミカを連れている。最も大切なはずの少女を、わざわざ、こんな危険な場所に。
「……何で」。掠れた声で、蔦漆は問うた。
「何で、あんたが。しかも、ミカ嬢まで——」
シュンカは、少し、不思議そうに、首を傾げた。蔦漆の問いが、よく分からない、というふうに。
「何でって……」。いつもの、凪いだ声。「ミカが蔦漆がいなくなったら、悲しむから」
蔦漆の頭が、その言葉を、処理し損ねた。
ミカが、悲しむから。——それは、損得とは、何の関係もない理由だった。
そして、シュンカは、ふと付け加えた。自分でも、それが当たり前のことか、確かめるように。少しだけ、間を置いて。
「……それに。僕も、少し、困るし」
ごく、小さな声で。まるで、言ってから、自分でその意味に気づいたかのように。
蔦漆は、動けなかった。
ずっと、解けなかった式が、今、目の前で、あっさりと、解かれた。
——いや。違う。解かれたのではない。蔦漆が使っていた計算式そのものが、最初から、間違っていたのだ。
この子供は、損か得かで動いていなかった。割に合うか、合わないか、で、生きていなかった。蔦漆が、ずっと唯一の物差しにしてきた、その尺度の外側で——あの子は、ただ、大切な誰かが悲しむから、という、それだけの理由で、死地に足を踏み入れた。
……ああ。
蔦漆の胸の奥で、長らく、数字しか流れてこなかった場所に、熱いものが、込み上げてきた。
計算では、決して、辿り着けない。計算では、決して、測れない。——そういう存在が、この世に、いるのか。俺の明晰な頭脳が、生涯一度も、捉えられなかったもの。それが、今、目の前に、小さな身体で、立っている。
蔦漆は、震える手を、地につき、深々と、頭を垂れた。誰に命じられたわけでもない。生まれて初めて、彼は——自分の意思で、一人の人間に、ついていきたいと、心の底から、そう思った。
「……ついて、いきます」。掠れた声で。けれど、迷いは、なかった。
「あんたに。どこまでも」
主体性のなかった男が、生涯で初めて、自分で選んだ、主だった。
シュンカは、きょとんとした顔で、「そう。じゃあ、帰ろう。隠れ家で、皆が待ってる」と、だけ言った。自分がたった今、一人の男のすべてを塗り替えたことにも、気づかぬまま。
その救出の場に、もう一人、いた。
赫飛だ。
蔦漆が罠にはまったと知って、真っ先に動いたのは、彼だった。シュンカに知らせ、そして、自分も、影を伝って、こっそりと、現場に潜んでいた。万一、シュンカの手が回らなければ、自分が蔦漆を引きずってでも逃がす——そのつもりで。
結局、出る幕は、なかった。シュンカが、一瞬で、片をつけたから。
けれど、赫飛は、影の中から、その一部始終を、見ていた。蔦漆が頭を垂れる姿を。あの、計算の塊のような男が、損得を捨てて膝を折る瞬間を。
「……はは。参ったねェ」
赫飛は、影の中で、ひとり、笑った。
俺だけじゃなかったのか。この子たちに、絆されてんのは。
あの日、芽生えた「守りたい」という思いは、もう、すっかり、彼の中に根を張っていた。子供たちを、誰かが守ってやらなきゃいけない——その「誰か」に、自分が、なる。それはもう、願いではなく決意に変わっていた。
保護欲はいつしか、忠義と、分かちがたく溶け合っていた。あの子たちを守り、あの王に仕える。それが、この生涯で果たすべきことだと、伝説の殺し屋は、静かに、心に決めていた。
そして——その一連を、最も、静かに見つめていた男がいた。
アル・カイド。
彼は、報告で、すべてを知った。チェインがミカを守って倒れ、剣を誓ったこと。セイレーンが初めて、誰かのために笛を吹いたこと。蔦漆が損得を捨てて、頭を垂れたこと。赫飛が影から子供たちを守ろうとしたこと。
打算で集まった、刃。誰一人、忠義などで来た者は、いなかった。なのに——一人、また一人と、自らの意思で、あの子供の足元に、ひれ伏していく。
あの日、胸に落ちた火の粉が。今、音を立てて、燃え上がった。
——間違いない。やはり、そうだ。
求めて、王になろうとする者は、偽物だ。奪い、握り、しがみつき、やがて引きずり降ろされる。AFOのように。だがシュンカは、何も求めない。求めぬがゆえに、人も、剣も、すべてが向こうからその手に集ってくる。
求めずして、王となる。——それこそが、本物の王の証。
もはや、それは、仮説ではなかった。証明された、真理。揺るがぬ、信仰だった。
アル・カイドの世界の見方が、完全に、組み変わる。音を立てて、あるべき場所に、すべてのピースが、嵌った。
あの子供は、ただの組織の頭目ではない。裏社会の王ですら、ない。
——あれは、この世界が、未だかつて戴いたことのない、本物の、唯一の王。
ならば。
アル・カイドの口元が、歪んでいく。歓喜とも、狂気ともつかぬ、笑みに。彼の中で長年燻っていた「社会を覆したい」という渇望は、今、はっきりとした形を得た。
あの王を、この世界の頂きに、据える。すべてを、あの子の足元に、ひれ伏させてみせる。——それが、本物の王に捧げるべき、唯一の供物だ。痛みすら、祝福として。我が身のすべてを、あの方のために。
打算で集ったテロリストは、この瞬間、組織で最も御しがたい——狂信者と、なった。
「……我が王」
誰もいない場所で、アル・カイドは、初めて、その言葉を、口にした。うっとりと。祈るように。その忠誠は、誰よりも深く、そして、誰よりも、危うかった。