僭帝編・第十一話「拾い損ね」
かつて、見下していた。
かつて、振り払った。
——その同じ手が今は。
別の誰かの足元に恭しく差し出されている。
死柄木弔は、死穢八斎會の応接室にいた。
手を組みに来たのだ。
屈辱だった。だが背に腹は代えられなかった。AFO亡き後連合は見る影もない。
求心力を失い、戦力は離れ金も尽きかけている。立て直すには、力のある後ろ盾が要る。だから、この極道の一派に同盟を持ちかけに来た。
対等の同盟を。互いの利を持ち寄る関係を。
それが死柄木のせめてものプライドだった。
頭を下げに来たのではない。手を組みに来たのだと。
布で口元を覆った若い男、オーバーホールが、
応接の椅子に深く座っている。治崎は死柄木の口上を、最後まで聞いて
——そして鼻で、笑った。
「対等?」
短く聞き返す。その声にあからさまな嘲りが滲んでいた。
「従属の間違いじゃないのか」
死柄木の掻きむしりかけた指が、止まる。
「……何だと」
「対等だと? お前のところと、うちが?」
治崎は、心底おかしそうに言った。
「AFOが死んで、骨抜きになった連合が。何を対等に差し出せる?戦力か? 金か? 名か?——何もないだろう」
ぐ、と。死柄木の喉が、鳴った。
「組みたいと言うなら、従え。うちの下につけ。
それなら考えてやってもいい」
治崎は、突き放すように、続けた。
「対等を口にできる立場じゃないんだよ。お前はもう」
反論が出なかった。事実だったから。
AFOという、すべての源を失った今、自分の連合が、対等を求める資格すら失った、ただの烏合の衆に成り下がっていることを——死柄木自身が、誰より知っていた。
惨めだった。手を組みに来たはずが。気づけば見下され、従属を迫られている。
治崎はそれ以上死柄木に興味を示さなかった。
話は終わった、とばかりに。
ただ去り際に。ふと、思い出したように治崎は言った。煽るでもなく。世間話のように。
「……そういえば。お前のところにいたんじゃないのか。あの白い髪のガキは」
死柄木の足が止まった。
「昔うちに来たことがあってな。雇ってくれと、頭を下げてきた。あの時は、
御せない犬だと思って追い返したが」
治崎は、淡々と、続けた。
「……今になって思う。リスクは高かった。だが——上手く扱えていれば、それを補って余りある、宝だった。拾い損ねたかもしれんな...と」
死柄木の、視界が、ぐらりと、揺れた。
「あの僭帝とは、できることならよしみを通じておきたいくらいだ」
治崎は、独りごちるように言った。
「あれだけの組織だ。たった数ヶ月で、裏の地図を塗り替えてしまった。敵に回したくはない。——まあ、お前には関係のない話だが」
関係のない話。
その一言がとどめだった。
治崎にとって、これはただの雑談だった。死柄木を、傷つけるつもりなど
欠片もない。だからこそ——その言葉は、何の悪意もなく、まっすぐ死柄木の
最も深いところへ突き刺さった。
死柄木は応接室を出て、ひとり薄暗い廊下を歩いた。
頭の中で、治崎の言葉が反響する。従属の間違いじゃないのか。宝だった。拾い損ねた。よしみを通じておきたい。——シュンカ。また、あいつだ。
ぐつり、と。腹の底の黒いものが煮え立った。
昔からそうだった。先生のもとにいた頃。あいつは、何もしなくても
すべてを与えられていた。才能も、賛美も、期待も。俺が喉から手が出るほど欲したものを、あの無関心な顔で当たり前のように。
そして、今も変わらない。何もかもだ。
俺が誘って、断られたチェインとイズナは、あいつの下にいる。俺の手は
払いのけた連中が、あいつには、勝手についていく。——それだけじゃない。
組織そのものが、違う。
俺の連合は、AFOが死んだ途端、縮んで骨抜きになった。なのに、あいつの僭帝は——同じ
AFOが死んだその時から、膨れ上がり、たった数ヶ月で、裏社会の地図を、塗り替えた。同じ場所から、始まったはずなのに。片方は凋落し。片方は頂きへ、駆け上がっていく。
そして今度はこの死穢八斎會まで。
俺は従属を迫られ、鼻で笑われた。なのに、あいつの僭帝とは
「よしみを通じたい」だと。
同じ男が。同じ口で。あいつにはすり寄り
俺には唾を吐く。
人も。金も。勢いも。後ろ盾も。——俺が、ついぞ届かなかった、そのすべてを、あいつは、求めもせずに、手にしていく。そして俺の手からは、残ったわずかなものまで、こぼれ落ちていく。
「……ふざけ、んな」
爪が、首筋を、裂く。血が、滲む。それでも、止まらない。掻いて、掻いて、掻きむしる。
「ふざけんな、ふざけんなふざけんなッ……! 何で、いつも、お前なんだよ……シュンカァ……ッ!」
誰もいない廊下に、掠れた絶叫が、反響した。
すべてを求めて、すべてを失った男の、行き場のない憎悪が。AFOの死んだ今、ただ一人——かつて妬み、今なお、その背を仰ぐしかないあの子供へと
濁流のように、向かっていく。
いつか。いつか必ず。
その時、死柄木の中で、殺意は、もう消えることのない芯になった。
その数日後。同じ死穢八斎會を別の客が訪れていた。
蔦漆だった。
「——よく来た。僭帝の参謀殿」
治崎は死柄木に見せたのとはまるで違う態度で、
蔦漆を迎えた。丁重に。値踏みではなく、もてなすように。
蔦漆は、淡々と用件を切り出した。
「ある品を、譲ってほしい。——個性破壊弾。そちらが、独自に製造している、と聞いた」
治崎の布の下の目がわずかに、動いた。
「……よく知っているな。あれは、表には出していない」
「情報が、私の商売だ」蔦漆は、表情を変えなかった。
「数を揃えたい。値は言い値で構わない」
個性を、一時的に消し去る弾丸。あらゆる個性者を、ただの人間に引きずり下ろす切り札。
蔦漆はそれを組織の備えとして、確保しておきたかった。
今、差し迫った脅威が、あるわけではない。
だが——僭帝は、大きくなりすぎた。大きくなれば、それだけ敵も増える。
中には個性で搦め手を使ってくる者もいるだろう。そういう相手に、対抗する手札は多いほうがいい。
あって困る武器ではない。蔦漆の明晰な頭が
そう弾き出していた。先を読み備える。
それが彼の王に捧げる仕事だった。
「言い値、か」。治崎は少し考えるそぶりを見せ——そして、意外なことを、言った。
「いや。割り引こう」
蔦漆の眉が、かすかに、上がる。
「僭帝とは、長くよしみを通じておきたくてな」
治崎は、淡々と言った。
「これは、その、手付けのようなものだ。——お宅の頭目に、よろしく伝えてくれ」
蔦漆はその言葉の裏を即座に読んだ。
巨大化した僭帝に恩を売り、繋がりを作っておきたい。それが治崎の狙いだ。
かつて——この男は、シュンカ様を「御せない犬」と追い返したと聞く。その同じ男が今は頭を低くして
よしみを乞うている。
立場は完全に逆転していた。
「……承知した」蔦漆は、短く頷いた。
「頭目にも、伝えておこう」
取引は滞りなく済んだ。
蔦漆は確保した個性破壊弾を手に、死穢八斎會を後にした。
それがいつどんな時に必要になるのか。
この時の蔦漆はまだ知らない。ただ、備えあれば憂いなし
——その、いつもの計算で、手札を一枚、増やしただけだった。