僭帝編・第十二話「狂信」
救われた者は、生涯をかけて恩を返す。
——それが、たとえ。
狂気と呼ばれるものに、変わろうとも。
その報せが海を越えて届いた時。
女は、床に崩れ落ちた。
「……嘘です」
スペイン。とある屋敷の一室。
青い髪を振り乱し女は震える手で、口元を覆った。顔に彫られた三つの文字——AFO——が痙攣するように歪む。
「嘘です。我が君が。あの方が死ぬなど……」
日本。神野。一人の子供に討たれた。世界最強と謳われたあの方が。たった一人のガキ如きに。
「あ……あぁ……」
女の喉から、言葉にならない音が、漏れた。それは、やがて絶叫に変わった。
「我が君ぃッ! なぜ、なぜ死んでしまったのですかぁぁぁぁぁぁ!」
誰もいない部屋に、声が反響する。
女は床に爪を立て、髪を掻きむしり、子供のように泣き喚いた。
「いやだ、いやだ……置いて、いかないで……! 私を、置いて、いかないでぇ……!」
涙が頬の刺青を、伝って落ちる。胸に下げた
小さなペンダント——その中の写真を、女は握りしめた。我が君の姿を。
この方だけだった。
この方だけが私を拾ってくれた。
女に名前はなかった。正確にはもう覚えていない。世界は彼女を、通り名で呼んだ。
ファナティカと。狂信者という意味の。
八つの、頃だった。
彼女の個性は人の感受性を、操る力だった。
だが幼い彼女は、それを制御できなかった。
ある日——その力が暴走した。
半径の内側にいた二人の人間が、
突然憎しみに駆られた。理由もなく。
狂ったように。互いを傷つけ合い、殺し合い
——そして、共に倒れた。
彼女の父と母だった。
幼い彼女はそれをただ、見ていることしかできなかった。自分の力が、最も近しい二人に、何をしたのかも、分からぬまま。
血の海の中でぽつんと、立ち尽くして。
その日彼女の心は壊れた。
化け物。人殺し。近づく者は、皆そう言って
彼女を恐れ遠ざけた。誰も、手を差し伸べなかった。壊れた少女は、ただ世界の隅で、朽ちていくはずだった。
——そこへ、その男は現れた。
「いい力だ」
恐れもせず男は、言った。血まみれの少女の前にしゃがみ込んで。
「君を拾ってあげよう。その力に居場所を作ろう。」
誰もが恐れたものを。この男だけは価値と
呼んだ。誰もが拒んだ少女を。この男だけは必要としてくれた。
壊れた心にその手は、唯一の光だった。
彼女はその手にすがった。生涯を捧げると誓った。
それから彼女は、AFOのために生きた。
兵器として磨かれ、数えきれぬ命をその力で
壊した。罪の意識はなかった。
我が君のためならどんな血も厭わない。
やがて彼女は、頭角を現し
——AFOのスペインにおけるすべてを束ねる
支部長にまで、登り詰めた。
AFOは彼女にすべてをくれた。
居場所を。存在意義を。生きる理由を。
だから、彼女にとってAFOは
——主君であり、大恩人であり、神だった。
その神が。死んだ。
数日が、過ぎた。
泣き喚き、床を這い、憔悴しきった女は
——やがて、ゆっくりと立ち上がった。
涙はもう乾いていた。代わりにその目に宿っていたのは、昏く静かな炎だった。
彼女は知っていた。我が君を殺した子供のことを。
シュンカ。
かつて、我が君が後継者として、目をかけていた子供。彼女自身教育者として、
その存在を知っていた。我が君が、手塩にかけて育てようとした器。
あの子供もまた我が君に、拾われた身。
同じだ。私と同じ。行き場のなかったところを
あの方に拾われ育てられた。
なら——その恩に報いるのが当然ではないか。生涯を捧げるのが。
なのに。あの子供は。
その手で、我が君を殺した。拾ってもらった恩を、最も惨い形で踏みにじった。
「……恩..知らず」
女の、握りしめた拳が、震えた。
「恩知らず……恩知らず!恩知らず——!」
声が見る間に膨れ上がっていく。
「恩知らずめェェェェェッ!!」
絶叫が屋敷を揺らした。窓が揺れ、割れていく。
女は、近くの調度を薙ぎ払い床に叩きつけ髪を掻きむしった。聖母のような普段の物腰など
跡形もない。剥き出しの憎悪。煮えたぎる激情。
「同じだったはずだッ! 同じように、あの方に、拾われたはずだッ! なのにッ、なのにお前はァ——!」
息が切れる。肩が、激しく上下する。
同じように、拾われながら。私は生涯を捧げ、あの子は刃を向けた。なぜ。なぜ、お前が。
私の、唯一の我が君を。私から何もかもを——!
ひとしきり、暴れ、喚き散らし——やがて、女は肩で息をしながら、ぴたりと、止まった。
床に転がったペンダントを拾い上げる。写真の中の我が君を、そっと、撫でた。
すると——あれほど荒れ狂っていた女の顔に、すうっと、別の表情が、戻ってきた。涙の跡を残したまま、唇が、優しく弧を描く。
「……我が君。ご安心ください」。うっとりと、祈るように。先ほどの絶叫が、嘘のように。
「この私が。必ず、仇を、討ちます。あの恩知らずに——いいえ。あの二人に。ふさわしい、報いを」
二人。シュンカと、その隣にいる ミカ
ただ殺すのでは、足りない。あれだけの恩を、仇で返したのだ。生半可な死では、贖えない。もっと、相応しい、絶望を。
——女の壊れた頭の中で、何か、おぞましい考えが、形を、成し始めていた。
彼女は、窓の外を、見た。遠い、東の空を。
日本へ行こう。
我が君のいた場所へ。そして我が君を奪った者たちの、いる場所へ。
狂信者は、静かに、笑った。涙の跡を、頬に残したまま。それは、救いを信じる者の、聖母のような、微笑みだった。
ファナティカは原作には登場しないオリジナルキャラクターです