僭帝編・第十六話「地獄」
その地獄は、二人をおびき寄せるために、作られた。
——だから、その子は。
自分のせいだと、思ってしまった。
横浜の街が地獄に変わっていた。
私たちが着いた時には、もう。
最初に目に入ったのは、若い母親だった。地べたに座り込み、我が子を、必死に、手で払いのけている。まるで、汚らわしい害虫でも追い払うように。
「いやっ、来るなっ! あっちへ行け——! こっちへ来るなァッ!」
母親は、金切り声で、喚いていた。少し離れた地面で、力なく泣く、小さな我が子に向かって。顔を、恐怖と嫌悪に歪めて。
「ママ……」。赤ん坊がそれでも手を伸ばす。母を求めて。
だが母親はその声に、いっそう怯えた。身をよじり、後ずさり我が子から逃げ惑う。彼女の目には、もう、我が子など映っていない。何かおぞましい、化け物が這い寄ってくる。
——そうとしか、見えていないのだ。あの女の力で。「ママ」というその声さえ、悍ましい羽音に聞こえているのかもしれない。
母の愛が。この世で最も断ち難いはずの、その絆が。——いとも、あっけなく、憎しみに塗り替えられていた。
私は、ぞっとした。
母性ですらこの女の前では、無力。何の意味もなさない。一番強いはずの愛が、一番簡単に壊される。
視線を巡らせる。別の場所では、もっとひどいことが起きていた。
一人の男が、大勢に囲まれていた。殴られ、蹴られ、引き倒されて。けれど殴っている側の顔は、怒りでも憎しみでもなかった。笑っていた。穏やかに。まるで楽しい遊びでもしているように。
操作された者たちが、操作されていないただ一人を嬲っている。悪意なく。ごく自然に。
あの人たちはきっと、抗えないのだ。人を傷つけたいというその衝動に。瞬きを我慢し続けるのが、いつか必ず限界を迎えるように。植え付けられた衝動は、どうしようもなく、溢れてしまう。だから、笑っている。罪の意識もなく。ごく当たり前のことを、しているだけだから。
囲まれた男は正気のまま、その地獄の中心にいた。助けてと叫ぶ声も、誰にも届かない。
そしてヒーローもいた。
駆けつけたらしい。けれどその人は動けずにいた。腰を抜かして。がたがたと震えて。目の前で人が傷つけられているのに。助けに行こうとして——その足がすくむ。
助けたいという気持ちを、あの女は恐怖に変えてしまう。前に出ようとするほど足がすくむ。怖くて怖くてたまらなくなる。ヒーローほど「助けたい」と強く思う者ほど、その反転で動けなくなる。残酷な仕掛けだった。
私は立ち尽くした。
街じゅうに悲鳴が満ちている。泣き声。怒号。狂った笑い声。何の罪もない人たちが。今日ここにいただけの人たちが。次々と人でなくなっていく。
——どうして。
答えは分かっていた。分かっていたから、苦しかった。
この地獄は、私たちのために作られた。あの女は私とシュンカをおびき出すために、この街を選んだ。私たちが来なければ、この人たちはこんな目に遭わなかった。
私たちが狙われているせいで。
胸が潰れそうだった。この人たちの悲鳴の一つひとつが、私のせいのように思えて。
隣を見た。シュンカはただ静かに、その地獄を眺めていた。表情は変わらない。彼にとってこの光景は、きっと何も感じさせない。世界がどうなろうと、彼には関係ない。彼が見ているのはいつだって私だけ。
それが今は少しだけ羨ましくて。そして、申し訳なかった。私がこんなことを気に病むから。きっとシュンカにまで、面倒をかける。
「……シュンカ」私は声を絞り出した。「この人たち、助けられないかな」
シュンカは私を見た。少し不思議そうに。それから言った。
「ミカがそうしたいなら。いいよ」
私のためだった。この期に及んでも。彼が動く理由はいつだって私。
その時だった。
頭上から、声が降ってきた。
「——ようこそ。おいでくださると信じておりました」
見上げる。半壊したビルの、屋上の縁。そこに一人の女が立っていた。
青い髪が風に揺れている。黒いコートと、革のズボン。そして——その顔に。アルファベットで、彫られた、三つの文字。AFO、と。
私の隣で、シュンカが、ぽつりと呟いた。
「……AFO。あいつの、刺青」
女は、聖母のように、微笑んでいた。この地獄の中心で。荒れ狂う悲鳴の真ん中で。まるで、慈悲深い聖人のような、穏やかな笑みを浮かべて。
「お会いしとうございました。我が君を、殺した——恩知らずの、お二人に」
その声は、慈しみに満ちていた。まるで、迷える子羊を迎える、聖職者のように。
「わたくし、ファナティカと申します。かの偉大なる、AFO様の——我が君の
忠実なる、しもべ」
女の指が、胸元のペンダントをそっと撫でた。その仕草だけがうっとりと蕩けていた。
「あの方は、わたくしを拾ってくださいました。壊れ、朽ちるだけだった、この身に。居場所を、意味を与えてくださった。あの方こそ、わたくしの、光。わたくしの、神。この世のすべて——」
そこで、女の微笑みが、ぴたりと止まった。
凍りついたような、沈黙。次の瞬間、その声が、地の底から這うように、低く沈んだ。
「その、我が君を。……よくも。よくも、殺してくれましたね」
ぞくり、と、私の背筋が粟立った。女の目が、かっと見開かれる。聖母の仮面が、内側から爆ぜた。
「あなたたちも、同じでしょうッ!? 同じように、あの方に、拾われたッ! 育てて、いただいたッ! 行き場のない、ゴミ屑を、あの方が、掬い上げてくださったッ! なのにッ——その手で、我が君を、殺すなんてェェェッ!!」
絶叫が、地獄の空に、響き渡った。
女は、肩で息をしていた。歯を食いしばり、握った拳を震わせて。
「恩知らず……恩知らず……! この世で、最も、赦されざる、大罪人……!」
——同じように、拾われた。
その言葉が、私の胸に、妙に引っかかった。この女も。私たちと、同じ。行き場のないところを、あの男に拾われた。なのに——こんなにも、違う。私たちは、あの男を憎んだ。この女は、あの男を神と崇めた。同じ場所から始まって、どうして、こうも。
ふと。女が、深く息を吐いた。そして——また、あの聖母の微笑みが、戻ってきた。けれど、その目だけは少しも笑っていない。
「……ああ、いけない。取り乱しました。あなたたちを、責めても、仕方が、ないのに。だって——あなたたちは、教わらなかったのですものね。恩の、返し方を。哀れな、子供たち」
慈しむように、女は、両手を広げた。
「ですから、わたくしが、教えて差し上げます。慈悲深き、我が君に、代わって。——安心なさい。すぐに、あの方のもとへ、送って差し上げますから。お二人、仲良く」
だが、そこで、また。女の声に、ぬめった熱が混じり始めた。
「……ああ、でも。ただ、殺すのでは。足りない。足りないのですよォ……! あれほどの恩を、あんな、惨い形で、踏みにじったのだからァ……!」
抑えようとして、抑えきれない。その声は、震えていた。
「だから——あなた方には。互いに、殺し合っていただきます」
私の、息が止まった。
「愛する者の、手で。愛する者を。その絶望の中で、死んでいただく。それでこそ、ようやく釣り合うのです。我が君を、失ったわたくしの——この、痛みと」
女は、微笑んだ。その頬に、涙のような狂気を滲ませて。
「さあ、見せてくださいませ。恩知らずの、あなた方の——薄っぺらい愛が。どこまで、保つのか」
薄っぺらい愛。——その言葉に、私の頭の奥が、かっと熱くなった。何も知らないくせに。私と、シュンカのことを。
けれど、女は、私の怒りなど意に介さず。うっとりと、続けた。
「ああ、それと。ひとつ、教えて差し上げましょう。——親切に、ね」
女の唇が、弧を描く。
「わたくしの力は、人の心を、操ります。憎しみに狂わせ、愛を殺意に変える。……でも、それだけではないの」
女は、自らの胸に手を当てた。
「もし、あなたたちが、わたくしを、殺せば。——その瞬間、操られた者の心は、永遠に、固定される。二度と元には戻らない。狂ったまま。壊れたまま。ずうっと」
背筋が、凍った。
つまり——この女を、殺せば。操られた人たちは、二度と戻らない。あの、我が子を虫だと思い込んだ母親も。笑いながら、人を嬲っていた、あの人たちも。全員、狂ったまま、一生を。この女を倒すことが——被害者を見殺しにする。
「さあ、どうします?」。女は、慈悲深く微笑んだ。
「わたくしを殺せば、あなたたちは、助かる。でも、この街の哀れな人々は、永遠に狂ったまま。——ふふ。ヒーローでも、ないのに。あなたたちが、そんなこと、気にしますか?」
その時だった。
「——あ?」
背後で、低い呻き声が聞こえた。イズナだった。
いつも飄々としている、あの男が。頭を抱えて、うずくまっている。ぶるぶると、肩が震えて。
「イズナ?」
私が呼びかけた、次の瞬間。
顔を上げたイズナの目は——濁っていた。焦点の合わない、憎悪だけが、ぎらつく目。私たちを見て。仲間を見て。
「……ぶっ殺す」
イズナの全身から、エネルギーが膨れ上がった。仲間に向けて。彼の中の何かが
——あの女の力で、憎しみに塗り替えられていた。
「あらあら」女が嗤う。
「もう、始まってしまいましたね。——さあ。地獄の、開幕です」