空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

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第30話「地獄」

僭帝編・第十六話「地獄」

 

その地獄は、二人をおびき寄せるために、作られた。

——だから、その子は。

自分のせいだと、思ってしまった。

 

 横浜の街が地獄に変わっていた。

 

 私たちが着いた時には、もう。

 

 最初に目に入ったのは、若い母親だった。地べたに座り込み、我が子を、必死に、手で払いのけている。まるで、汚らわしい害虫でも追い払うように。

 

 「いやっ、来るなっ! あっちへ行け——! こっちへ来るなァッ!」

 

 母親は、金切り声で、喚いていた。少し離れた地面で、力なく泣く、小さな我が子に向かって。顔を、恐怖と嫌悪に歪めて。

 

 「ママ……」。赤ん坊がそれでも手を伸ばす。母を求めて。

 

 だが母親はその声に、いっそう怯えた。身をよじり、後ずさり我が子から逃げ惑う。彼女の目には、もう、我が子など映っていない。何かおぞましい、化け物が這い寄ってくる。

 

——そうとしか、見えていないのだ。あの女の力で。「ママ」というその声さえ、悍ましい羽音に聞こえているのかもしれない。

 

 母の愛が。この世で最も断ち難いはずの、その絆が。——いとも、あっけなく、憎しみに塗り替えられていた。

 

 私は、ぞっとした。

 

 母性ですらこの女の前では、無力。何の意味もなさない。一番強いはずの愛が、一番簡単に壊される。

 

 視線を巡らせる。別の場所では、もっとひどいことが起きていた。

 

 一人の男が、大勢に囲まれていた。殴られ、蹴られ、引き倒されて。けれど殴っている側の顔は、怒りでも憎しみでもなかった。笑っていた。穏やかに。まるで楽しい遊びでもしているように。

 

 操作された者たちが、操作されていないただ一人を嬲っている。悪意なく。ごく自然に。

 

 あの人たちはきっと、抗えないのだ。人を傷つけたいというその衝動に。瞬きを我慢し続けるのが、いつか必ず限界を迎えるように。植え付けられた衝動は、どうしようもなく、溢れてしまう。だから、笑っている。罪の意識もなく。ごく当たり前のことを、しているだけだから。

 

 囲まれた男は正気のまま、その地獄の中心にいた。助けてと叫ぶ声も、誰にも届かない。

 

 そしてヒーローもいた。

 

 駆けつけたらしい。けれどその人は動けずにいた。腰を抜かして。がたがたと震えて。目の前で人が傷つけられているのに。助けに行こうとして——その足がすくむ。

 

 助けたいという気持ちを、あの女は恐怖に変えてしまう。前に出ようとするほど足がすくむ。怖くて怖くてたまらなくなる。ヒーローほど「助けたい」と強く思う者ほど、その反転で動けなくなる。残酷な仕掛けだった。

 

 私は立ち尽くした。

 

 街じゅうに悲鳴が満ちている。泣き声。怒号。狂った笑い声。何の罪もない人たちが。今日ここにいただけの人たちが。次々と人でなくなっていく。

 

 ——どうして。

 

 答えは分かっていた。分かっていたから、苦しかった。

 

 この地獄は、私たちのために作られた。あの女は私とシュンカをおびき出すために、この街を選んだ。私たちが来なければ、この人たちはこんな目に遭わなかった。

 

 私たちが狙われているせいで。

 

 胸が潰れそうだった。この人たちの悲鳴の一つひとつが、私のせいのように思えて。

 

 隣を見た。シュンカはただ静かに、その地獄を眺めていた。表情は変わらない。彼にとってこの光景は、きっと何も感じさせない。世界がどうなろうと、彼には関係ない。彼が見ているのはいつだって私だけ。

 

 それが今は少しだけ羨ましくて。そして、申し訳なかった。私がこんなことを気に病むから。きっとシュンカにまで、面倒をかける。

 

 「……シュンカ」私は声を絞り出した。「この人たち、助けられないかな」

 

 シュンカは私を見た。少し不思議そうに。それから言った。

 

 「ミカがそうしたいなら。いいよ」

 

 私のためだった。この期に及んでも。彼が動く理由はいつだって私。

 

 その時だった。

 

 頭上から、声が降ってきた。

 

 「——ようこそ。おいでくださると信じておりました」

 

 見上げる。半壊したビルの、屋上の縁。そこに一人の女が立っていた。

 

 青い髪が風に揺れている。黒いコートと、革のズボン。そして——その顔に。アルファベットで、彫られた、三つの文字。AFO、と。

 

 私の隣で、シュンカが、ぽつりと呟いた。

 

 「……AFO。あいつの、刺青」

 

 女は、聖母のように、微笑んでいた。この地獄の中心で。荒れ狂う悲鳴の真ん中で。まるで、慈悲深い聖人のような、穏やかな笑みを浮かべて。

 

 「お会いしとうございました。我が君を、殺した——恩知らずの、お二人に」

 

 その声は、慈しみに満ちていた。まるで、迷える子羊を迎える、聖職者のように。

 

 「わたくし、ファナティカと申します。かの偉大なる、AFO様の——我が君の

忠実なる、しもべ」

 

 女の指が、胸元のペンダントをそっと撫でた。その仕草だけがうっとりと蕩けていた。

 

 「あの方は、わたくしを拾ってくださいました。壊れ、朽ちるだけだった、この身に。居場所を、意味を与えてくださった。あの方こそ、わたくしの、光。わたくしの、神。この世のすべて——」

 

 そこで、女の微笑みが、ぴたりと止まった。

 

 凍りついたような、沈黙。次の瞬間、その声が、地の底から這うように、低く沈んだ。

 

 「その、我が君を。……よくも。よくも、殺してくれましたね」

 

 ぞくり、と、私の背筋が粟立った。女の目が、かっと見開かれる。聖母の仮面が、内側から爆ぜた。

 

 「あなたたちも、同じでしょうッ!? 同じように、あの方に、拾われたッ! 育てて、いただいたッ! 行き場のない、ゴミ屑を、あの方が、掬い上げてくださったッ! なのにッ——その手で、我が君を、殺すなんてェェェッ!!」

 

 絶叫が、地獄の空に、響き渡った。

 

 女は、肩で息をしていた。歯を食いしばり、握った拳を震わせて。

 

 「恩知らず……恩知らず……! この世で、最も、赦されざる、大罪人……!」

 

 ——同じように、拾われた。

 

 その言葉が、私の胸に、妙に引っかかった。この女も。私たちと、同じ。行き場のないところを、あの男に拾われた。なのに——こんなにも、違う。私たちは、あの男を憎んだ。この女は、あの男を神と崇めた。同じ場所から始まって、どうして、こうも。

 

 ふと。女が、深く息を吐いた。そして——また、あの聖母の微笑みが、戻ってきた。けれど、その目だけは少しも笑っていない。

 

 「……ああ、いけない。取り乱しました。あなたたちを、責めても、仕方が、ないのに。だって——あなたたちは、教わらなかったのですものね。恩の、返し方を。哀れな、子供たち」

 

 慈しむように、女は、両手を広げた。

 

 「ですから、わたくしが、教えて差し上げます。慈悲深き、我が君に、代わって。——安心なさい。すぐに、あの方のもとへ、送って差し上げますから。お二人、仲良く」

 

 だが、そこで、また。女の声に、ぬめった熱が混じり始めた。

 

 「……ああ、でも。ただ、殺すのでは。足りない。足りないのですよォ……! あれほどの恩を、あんな、惨い形で、踏みにじったのだからァ……!」

 

 抑えようとして、抑えきれない。その声は、震えていた。

 

 「だから——あなた方には。互いに、殺し合っていただきます」

 

 私の、息が止まった。

 

 「愛する者の、手で。愛する者を。その絶望の中で、死んでいただく。それでこそ、ようやく釣り合うのです。我が君を、失ったわたくしの——この、痛みと」

 

 女は、微笑んだ。その頬に、涙のような狂気を滲ませて。

 

 「さあ、見せてくださいませ。恩知らずの、あなた方の——薄っぺらい愛が。どこまで、保つのか」

 

 薄っぺらい愛。——その言葉に、私の頭の奥が、かっと熱くなった。何も知らないくせに。私と、シュンカのことを。

 

 けれど、女は、私の怒りなど意に介さず。うっとりと、続けた。

 

 「ああ、それと。ひとつ、教えて差し上げましょう。——親切に、ね」

 

 女の唇が、弧を描く。

 

 「わたくしの力は、人の心を、操ります。憎しみに狂わせ、愛を殺意に変える。……でも、それだけではないの」

 

 女は、自らの胸に手を当てた。

 

 「もし、あなたたちが、わたくしを、殺せば。——その瞬間、操られた者の心は、永遠に、固定される。二度と元には戻らない。狂ったまま。壊れたまま。ずうっと」

 

 背筋が、凍った。

 

 つまり——この女を、殺せば。操られた人たちは、二度と戻らない。あの、我が子を虫だと思い込んだ母親も。笑いながら、人を嬲っていた、あの人たちも。全員、狂ったまま、一生を。この女を倒すことが——被害者を見殺しにする。

 

 「さあ、どうします?」。女は、慈悲深く微笑んだ。

 

「わたくしを殺せば、あなたたちは、助かる。でも、この街の哀れな人々は、永遠に狂ったまま。——ふふ。ヒーローでも、ないのに。あなたたちが、そんなこと、気にしますか?」

 

 その時だった。

 

 「——あ?」

 

 背後で、低い呻き声が聞こえた。イズナだった。

 

 いつも飄々としている、あの男が。頭を抱えて、うずくまっている。ぶるぶると、肩が震えて。

 

 「イズナ?」

 

 私が呼びかけた、次の瞬間。

 

 顔を上げたイズナの目は——濁っていた。焦点の合わない、憎悪だけが、ぎらつく目。私たちを見て。仲間を見て。

 

 「……ぶっ殺す」

 

 イズナの全身から、エネルギーが膨れ上がった。仲間に向けて。彼の中の何かが

 

——あの女の力で、憎しみに塗り替えられていた。

 

 「あらあら」女が嗤う。

 

「もう、始まってしまいましたね。——さあ。地獄の、開幕です」

 

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