空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

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第33話「それでも」

僭帝編・第十九話「それでも」

 

愛を、殺意に変えられても。

——その人の名を呼ぶ声だけは。

どうしても、憎しみに染まらなかった。

 

 憎い。

 

 込み上げてきたのは、そんな、感情だった。

 

 目の前の白い髪の男。ずっと隣にいたその人が。今は——たまらなく憎らしい。消えてほしい。いなくなってほしい。この手で——

 

 違う!

 

 私は、悲鳴を上げそうになった。違う。これは私じゃない。あの女の力だ。分かってる。分かってるのに——!

 

 「グラディウス……!」

 

 牙を剥こうとしている、私の心のままに。今、私の心を埋め尽くしている、この憎しみのままに。

 

 やめろ!

 

 グラディウスが咆哮し、シュンカへと躍りかかった。巨大な爪が。牙が。世界で一番大切な人へ

向かって。

 

 止まって、お願い!

 

 でも——止まらない。グラディウスは獣だ。私の意思のままに動く。そして今、私の意思は——殺意に、塗り潰されている。だから獣は殺しに行く。

ためらいもなく。私がそう望んでいるから。

 

 「シュンカ——!」

 

 叫んだ。でも、その声が憎しみなのか、悲鳴なのか。自分でも分からなかった。

 

 シュンカは。避けなかった。

 

 グラディウスの爪が、その身体を捉える。——けれど。傷一つ、つかなかった。不壊。触れたものを拒む、絶対の静止。獣の牙も、爪も、彼の前では意味をなさない。

 

 シュンカはただいなしていた。襲いくる獣を、受け流し、逸らし。傷つきもせず、傷つけもせず。静かに、私のほうへ歩いてくる。

 

 来ないで!

 

 私は後ずさった。怖かった。近づいてくる、彼が、ではない。——近づいてくる彼を、この手で、殺してしまいそうな、自分が。

 

 殺意が、膨れ上がる。グラディウスが、なおも襲いかかる。牙を剥いて。私の愛する人へ。

 

 やめて、やめて!やめて!やめて!!!

 

 止められない! 自分の心が! 大切な人を

 

殺そうとしているのに——それを、止められない!

 

 私は最低だ。あんなに大好きなのに。

命より大事なのに。なのに、この手で傷つけようとして——!

 

 「ミカ」

 

 声がした。

 

 いなし続けながら。ゆっくりと、近づきながら。シュンカがいつものあの平坦な声で言った。

 

 「いいよ」

 

 私の、息が止まった。

 

 「傷つけていい。全部ぶつけていい。——僕は平気だから」

 

 憎しみに歪んだ私の顔を、まっすぐ見て。彼は言った。

 

 「ミカは、何も悪くない。操られてるだけだ。……ううん。たとえ、操られてなくても。ミカが僕を殺したいなら。——それでもいい」

 

 やめて。そんなこと言わないで。

 

 「ミカが何をしても。僕はミカがいいんだ」

 

 ——ぐらり、と。

 

 私の中で、何かが揺れた。

 

 憎しみの奥。あの女に塗り潰された

その、さらに奥に。——消せなかったものがあった。

 

 この人が、好きだ。

 

 殺意がどれだけ押し寄せても。

この、たった一つの気持ちだけは。誰にも

——あの女にも。塗り替えられなかった。私の

一番、深いところで。ずっと灯っていた。

 

 好きだ。大好きだ。殺したくなんか、ない。ずっと、一緒にいたい。この人と。

 

 「シュン...カ……」

 

 涙が溢れた。憎しみの涙じゃない。

 

 グラディウスの動きが鈍る。私の殺意が、愛に、押し返されていく。獣が、ためらい、そして——掻き消えた。私の心が、殺意を、手放したから。

 

 その、瞬間。

 

 シュンカの手が、私の頬に、触れた。

 

 途端——冷たいものが、すうっと、引いていった。あの女の音が。私の中から、締め出されていく。彼の、不壊が。触れた私を、世界のすべての干渉から、守るように。操作が——解けた。

 

 「……あ」

 

 私は我に返った。そして理解した。自分が何をしようとしていたのかを。

グラディウスで。この人を。

 

 「ごめ……ごめん..!シュンカ...私っ……!」

 

 崩れ落ちる私を、シュンカが、抱きとめた。

 

 「謝らなくて、いい」静かに。

 

「ミカは、何もしてない。——ちゃんと、戻ってきた。それだけでいい」

 

 彼の胸で、私は泣きじゃくった。子供みたいに。

 

 あの女の力は母の愛さえ砕いた。この世で、一番強いはずの絆さえ。

——でも。

 

 私の、この気持ちは。砕けなかった。

 

 この人への、愛だけは。何があっても。

 

 ——その時。

 

 絹を裂くような、悲鳴が、響いた。

 

 「なぜ……なぜですかァッ!!」

 

 顔を、上げる。半壊ビルの屋上で、ファナティカが、髪を掻きむしっていた。あの、余裕に満ちた聖母の微笑みは、跡形もなく消えている。

 

 「解けるはずが、ないッ! わたしの音はッ!愛を、憎しみに変えるッ! 親子ですら、引き裂いてきたッ! 何百人も、狂わせてきたッ! なのにッ——!」

 

 女はこちらを指さした。その指が、わなわなと

震えている。目が血走り、見開かれて。

 

 「なぜ、貴様たちだけッ!? なぜ、その絆が、壊れないッ!! おかしいッ、そんなの、間違ってるゥッ!!」

 

 金切り声が、地獄の空に、突き刺さった。

 

 初めて、見た。あの女が、こんなにも、取り乱すのを。必勝のはずの力を、破られて。理解できないものを、突きつけられて。聖母の仮面は、完全に、剥がれ落ちていた。剥き出しの、狼狽と、逆上だけが、そこにあった。

 

 「認めない……認めませんッ! そんなもの!まやかしですッ! すぐに、証明して差し上げるゥッ!!」

 

 ——あなたには、分からないんだ。

 

 私は、シュンカの胸で静かに思った。あなたが、我が君に捧げた、その歪んだものと。私たちの

これは。——違うものだから。

 

 どれだけ喚いても。あなたにはきっと、一生、届かない。

 

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