僭帝編・第十九話「それでも」
愛を、殺意に変えられても。
——その人の名を呼ぶ声だけは。
どうしても、憎しみに染まらなかった。
憎い。
込み上げてきたのは、そんな、感情だった。
目の前の白い髪の男。ずっと隣にいたその人が。今は——たまらなく憎らしい。消えてほしい。いなくなってほしい。この手で——
違う!
私は、悲鳴を上げそうになった。違う。これは私じゃない。あの女の力だ。分かってる。分かってるのに——!
「グラディウス……!」
牙を剥こうとしている、私の心のままに。今、私の心を埋め尽くしている、この憎しみのままに。
やめろ!
グラディウスが咆哮し、シュンカへと躍りかかった。巨大な爪が。牙が。世界で一番大切な人へ
向かって。
止まって、お願い!
でも——止まらない。グラディウスは獣だ。私の意思のままに動く。そして今、私の意思は——殺意に、塗り潰されている。だから獣は殺しに行く。
ためらいもなく。私がそう望んでいるから。
「シュンカ——!」
叫んだ。でも、その声が憎しみなのか、悲鳴なのか。自分でも分からなかった。
シュンカは。避けなかった。
グラディウスの爪が、その身体を捉える。——けれど。傷一つ、つかなかった。不壊。触れたものを拒む、絶対の静止。獣の牙も、爪も、彼の前では意味をなさない。
シュンカはただいなしていた。襲いくる獣を、受け流し、逸らし。傷つきもせず、傷つけもせず。静かに、私のほうへ歩いてくる。
来ないで!
私は後ずさった。怖かった。近づいてくる、彼が、ではない。——近づいてくる彼を、この手で、殺してしまいそうな、自分が。
殺意が、膨れ上がる。グラディウスが、なおも襲いかかる。牙を剥いて。私の愛する人へ。
やめて、やめて!やめて!やめて!!!
止められない! 自分の心が! 大切な人を
殺そうとしているのに——それを、止められない!
私は最低だ。あんなに大好きなのに。
命より大事なのに。なのに、この手で傷つけようとして——!
「ミカ」
声がした。
いなし続けながら。ゆっくりと、近づきながら。シュンカがいつものあの平坦な声で言った。
「いいよ」
私の、息が止まった。
「傷つけていい。全部ぶつけていい。——僕は平気だから」
憎しみに歪んだ私の顔を、まっすぐ見て。彼は言った。
「ミカは、何も悪くない。操られてるだけだ。……ううん。たとえ、操られてなくても。ミカが僕を殺したいなら。——それでもいい」
やめて。そんなこと言わないで。
「ミカが何をしても。僕はミカがいいんだ」
——ぐらり、と。
私の中で、何かが揺れた。
憎しみの奥。あの女に塗り潰された
その、さらに奥に。——消せなかったものがあった。
この人が、好きだ。
殺意がどれだけ押し寄せても。
この、たった一つの気持ちだけは。誰にも
——あの女にも。塗り替えられなかった。私の
一番、深いところで。ずっと灯っていた。
好きだ。大好きだ。殺したくなんか、ない。ずっと、一緒にいたい。この人と。
「シュン...カ……」
涙が溢れた。憎しみの涙じゃない。
グラディウスの動きが鈍る。私の殺意が、愛に、押し返されていく。獣が、ためらい、そして——掻き消えた。私の心が、殺意を、手放したから。
その、瞬間。
シュンカの手が、私の頬に、触れた。
途端——冷たいものが、すうっと、引いていった。あの女の音が。私の中から、締め出されていく。彼の、不壊が。触れた私を、世界のすべての干渉から、守るように。操作が——解けた。
「……あ」
私は我に返った。そして理解した。自分が何をしようとしていたのかを。
グラディウスで。この人を。
「ごめ……ごめん..!シュンカ...私っ……!」
崩れ落ちる私を、シュンカが、抱きとめた。
「謝らなくて、いい」静かに。
「ミカは、何もしてない。——ちゃんと、戻ってきた。それだけでいい」
彼の胸で、私は泣きじゃくった。子供みたいに。
あの女の力は母の愛さえ砕いた。この世で、一番強いはずの絆さえ。
——でも。
私の、この気持ちは。砕けなかった。
この人への、愛だけは。何があっても。
——その時。
絹を裂くような、悲鳴が、響いた。
「なぜ……なぜですかァッ!!」
顔を、上げる。半壊ビルの屋上で、ファナティカが、髪を掻きむしっていた。あの、余裕に満ちた聖母の微笑みは、跡形もなく消えている。
「解けるはずが、ないッ! わたしの音はッ!愛を、憎しみに変えるッ! 親子ですら、引き裂いてきたッ! 何百人も、狂わせてきたッ! なのにッ——!」
女はこちらを指さした。その指が、わなわなと
震えている。目が血走り、見開かれて。
「なぜ、貴様たちだけッ!? なぜ、その絆が、壊れないッ!! おかしいッ、そんなの、間違ってるゥッ!!」
金切り声が、地獄の空に、突き刺さった。
初めて、見た。あの女が、こんなにも、取り乱すのを。必勝のはずの力を、破られて。理解できないものを、突きつけられて。聖母の仮面は、完全に、剥がれ落ちていた。剥き出しの、狼狽と、逆上だけが、そこにあった。
「認めない……認めませんッ! そんなもの!まやかしですッ! すぐに、証明して差し上げるゥッ!!」
——あなたには、分からないんだ。
私は、シュンカの胸で静かに思った。あなたが、我が君に捧げた、その歪んだものと。私たちの
これは。——違うものだから。
どれだけ喚いても。あなたにはきっと、一生、届かない。