僭帝編・第二十話「塵」
狂信は、最期の瞬間まで彼女を救い続けた。
——それが、どれほど、歪んでいても。
その女にはそれだけがすべてだったのだ。
「認めない……認めませんッ!」
ファナティカの絶叫が、地獄の空を裂いた。
愛を砕けなかった。この二人だけが。ならば
——もう一度。今度こそ抗えぬほどの力で。彼女は、息を大きく吸い込んだ。渾身の、フルパワーの怪音波を放とうとして——
「——外道の姉ちゃん」
声は、背後から。
いつの間に。彼女の影から。にゅう、と、黒ずくめの男が現れていた。手には、無数のコレクションの中の、一振り。
「ミカちゃんに、気ぃ取られすぎだぜ」
赫飛の刃が、閃いた。
ファナティカの片腕が——斬り落とされる。息を、吸い込んだまま。怪音波を放つ、その寸前で。力が、宙に霧散した。
「が——ッ!?」
よろめく女。だが、赫飛の動きは止まらない。返す手で、懐から何かを取り出す。禍々しい
注射器のような——弾。
その瞬間。赫飛の脳裏を、ほんの一瞬、廃ビルでの作戦会議がよぎった。
——布陣を組む、その最後に。エディが低く告げていた。
『いいか。切り札は、これだ』
覇王の手にあったのが、この弾だった
『死穢八斎會から譲り受けた、個性破壊弾。あの女の力は、殺せば固定される。
だが——これで、個性ごと、消しちまえば。操作は根こそぎ解ける可能性が高い
誰にも悟られるな。あの女が油断したその一瞬に——撃ち込め』
その一瞬が。今、来た。
「じゃあな。——治療費は、たっぷり貰ったぜ」
赫飛が個性破壊弾を、女の身体へ突き立てた。
効果は、劇的だった。
街じゅうを、狂わせていた、見えざる力が——途切れた。
我が子を、害虫と怯えていた母親が、はっと我に返る。腕の中の、我が子の顔を、思い出したように。笑いながら人を嬲っていた者たちが、その手を、止める。何が起きたのか、分からぬまま。狂気の糸が、切れた。地獄が——終わった。
操作されていたすべての人々が。解き放たれた。個性を消されたことで。ファナティカの力は、根こそぎ失われたのだ。
「……え」
ファナティカが、呆然と呟いた。片腕を失い、地に崩れ落ちて。
「ない。……ない。わたくしの、力が」
その手を、見る。あれほど、多くの命を狂わせてきた、力。我が君に、仕える力。それが——消えていた。空っぽの器になっていた。
「返せ」
女の声が、震えた。
「返せ、返せ、返せッ! それは、あの方のッ! 我が君のための、力なのにッ! 返せぇぇぇッ!!」
地を、掻きむしり慟哭する。もう、聖母でも、狂信者でもなかった。ただ、
すがるものを奪われた一匹の——獣だった。
その姿を。
シュンカが、静かに、見ていた。
次の、瞬間だった。
シュンカの姿が——消えた。
喚き続けていたファナティカには、何も見えなかっただろう。反応する暇も。
悟る間も。あらゆる抵抗は、意味を失っていた。時間を止め、加速した肉体が、地獄の空間を、貫く。誰の目にも留まらぬ速さで。
気づいた時には——もう。
白い手刀が、女の鎖骨から、胸までを貫いていた。
声もなかった。
ファナティカはただ、呆然と自分を貫く、その細い腕を、見下ろした。
何が起きたのか。理解が追いつかぬまま。
「……ミカを、泣かせたんだ」
シュンカがぽつりと言った。いつもの、平坦な声で。けれど、
その一言だけが——彼のたった一つの理由だった。
街を、地獄にしたことでもない。
百人を超える人々を、狂わせたことでもない。
ただ——ミカを泣かせた。それだけが。この女の罪だった。
「許さない」
シュンカがもう一方の手を、掲げる。その掌の上に——一握りの、砂があった。時を止め不変と化した、絶対の質量。触れれば、世界を穿つただの、砂。
それを、女へと、投げつけた。
ファナティカの、目が見開かれる。
「あ……」
声を漏らす間もなかった。
けれど——その、最期の一瞬。彼女の顔から、憎悪が、絶望が、すっと消えた。代わりに、浮かんだのは——安らかな微笑みだった。
我が君。
力を失っても。すべてを奪われても。今ようやく。あの方のもとへ、行ける。
「……我が君。今、お傍に——」
その言葉を、最後に。
女は、塵になった。
あれほど多くを狂わせ、荘厳に
狂信を語った女が。あっけなく。世界から消えた。
後には——静寂だけが、残った。
シュンカは、手を下ろした。そこにもう、何もないことを確かめもせず。踵を返す。
彼の興味は既に、女にはなかった。勝利にも、決着にも。ただ——泣きやんだ、ミカの、無事だけを確かめるように。
そのそばで。斬られ、倒れていた、炎の英雄が朦朧とする意識で、その一部始終を、見ていた。
子供が。あの白い髪の子供が。自分ですら、手も足も出なかった、あの怪物を——一瞬で、塵にした。そして民間人を誰一人巻き込まず。倒れた自分にすら、一瞥も、くれず。ただ、隣の少女のもとへ戻っていく。
「……待て」エンデヴァーが、掠れた声を、絞り出した。
「君は——一体……」
だが、その声は。届かなかった。
シュンカは、振り返りもしなかった。ミカの手を取り、幹部たちと共に、闇へと、消えていく。ヒーローの言葉など、最初から存在しないかのように。
残されたのは、救われた街と。一人の英雄だけ。
——後に。この日横浜を救ったのが、ヴィランの子供であったという、事実だけが。エンデヴァーの胸に深く、突き刺さって残った。