僭帝編・第二十一話「報せ」
同じ報せが。
一方には、屈辱の炎を。
もう一方には、安堵の涙をもたらした。
ファナティカが、敗れた。
その報せは、瞬く間に闇の世界を駆け巡った。
あの、スペインの狂女が。単身で
僭帝の下部組織を壊滅させ、横浜を地獄に変えた、あの化け物が。——たった一日で、塵にされた。僭帝の手で。
ヴィラン連合のアジトにも、その報せは届いていた。
「……嘘、だろ」スピナーが、呻いた。
「あのファナティカが。あの、AFOの秘蔵っ子が。あっさり……」
誰もが、言葉を失っていた。荼毘は醒めた目で、宙を睨んでいる。トガでさえいつもの笑みを、忘れていた。
あの女の強さを。この場の誰もが、知っていた。まともにやり合えば、連合とて、ただでは済まない、いや手も足も出ない、その化け物を——シュンカは、片手間のように、葬った。
その静寂の中で。
死柄木弔だけが、震えていた。
怒りで。屈辱で。
……また、こいつか。
死柄木の爪が、掌に食い込んだ。あの、白い髪の子供。先生に、「自慢の弟子」と呼ばれ。先生の、仇であるはずの、あの男。
ファナティカは——曲がりなりにも、先生の仇を、討とうとした。討てずに、死んだ。
なのに、自分は。
その仇に。指一本、届かぬまま。ここで、燻っている。ファナティカにすら劣る。あの、白いガキには——遠く、及ばない。
劣等感が。腹の底から、黒く噴き上げた。
「……気に入らねえ」
死柄木の、掠れた声が、漏れた。
あの男が、憎い。あの男の、すべてが。あの余裕が。あの揺るがなさが。何もかも。——ならば。
ふと。死柄木の脳裏に。ファナティカから、聞いた、ある話が、蘇った。あの女が、AFOの遺産を、託しに来た、あの時。世間話のように、漏らした——あの男の、たった一つの秘密。
死柄木の、荒れた唇が。歪んだ。
「……そうだ。いいことを、教えてやるよ。裏社会の、みんなに」
嫌がらせだった。ただの。あの男を、少しでも、困らせてやりたい。その、一心の。
死柄木は、闇のネットワークへ、その情報を、流し始めた。
——シュンカには、弱点がある。あの、隣にいる、少女。あれを殺せば。あの化け物も死ぬ。
僭帝の王を、殺したければ——あの少女を、狙え、と。
ただ、目の前の子供を困らせたい。
その、ちっぽけな私怨だけで。彼はパンドラの箱を、開けた。
その数日後。
都内の病院。個室のベッドにエンデヴァーは
身を起こしていた。脇腹と、腕に、包帯を巻いて。命に別状はなかった。だが——その表情は、傷の痛みとは、別のもので沈んでいた。
「やぁ……ひどい様だな」
病室に現れたのは、痩せこけた男だった。かつて、平和の象徴と呼ばれた男。
オールマイト——八木俊典。見舞いの、菓子折りを手にして。
「オールマイトか」エンデヴァーが、力なく笑った。
「No.1が、無様にやられた。……笑ってくれて、いいぞ」
「笑うものか」オールマイトは、静かに、椅子を引き寄せた。
「あの、横浜の惨状は聞いている。……よく、生きて帰った」
しばし、沈黙が落ちた。
エンデヴァーは、天井を見上げていた。あの日、見た光景を。どう伝えるべきか。迷うように。
——だが、やがて、意を決したように、口を開いた。
「オールマイト。お前に……いや、お前にこそ伝えねばならんことが、ある」
「なんだ」
「あの日。横浜で。俺は——見たんだ」
エンデヴァーの声が、わずかに掠れた。
「あの、ファナティカという女を、倒したのは。俺じゃない。ヒーローでもない。——子供だ。白い髪の、赤い目をした。そして、その隣に、黒髪の少女がいた」
オールマイトの肩が。びくりと震えた。
「……なんだと」
「二人とも、まだ幼い。12、いや、それより下かもしれん。オールマイト、お前が探していた神野の子達じゃないのか?」
オールマイトは、答えなかった。答えられなかった。ただ、その落ち窪んだ目が、大きく、見開かれていた。
白い髪。赤い目。黒髪の少女。
——間違い、ない。ずっと探していた。あの子たち。神野のあの日から。ヴィランに、してしまった、あの——
「……生きて、いたのか」
オールマイトの声が、震えた。
「あの子たちは。生きて……無事、なのか」
「ああ」エンデヴァーが、頷いた。
「無事だ。傷、一つ、負っていなかった。それどころか——」
エンデヴァーは、あの光景を、思い起こす。
「あの子は。あの、白い髪の子供は。俺が、手も足も出なかった、あの化け物を——一撃で、葬った。そして……民間人を、誰一人、巻き込まなかった。
狂わされた人々を、元に戻し。倒れた、俺にすら、手を出さず。ただ、静かに去っていった」
「……っ」
「聞いてくれ、オールマイト」。エンデヴァーの目に、力がこもる。
「あの子のやり方は。確かに、ヴィランの、それだ。倫理観は、壊れているのかもしれん。だが——あの子には、善悪の天秤がある。守るべきものと、
そうでないものを、分けている。無差別じゃない。まだ——間に合うかもしれん」
その時。
エンデヴァーは、気づいた。
オールマイトの頬を。一筋の、涙が、伝っていた。
声も、なく。痩せこけた、かつての英雄が。ただ、静かに。ぼろぼろと、涙を、こぼしていた。
「……オールマイト?」
「すまない」オールマイトが掠れた声で言った。
「すまない、みっともないな。……ただ、その」
言葉に、ならなかった。
ずっと。ずっと、探していた。あの子たちを。
神野で救えなかった。ヴィランに、してしまった。その罪を。毎日、毎日、痩せた体を引きずって、
街を探し回った。ファナティカが現れて——もう、間に合わないかと。あの子たちが、あの女に殺されるのではと。眠れぬ夜を幾つも越えて。
それが。
「……生きて...いて...くれた」
安堵が。堰を切ったように、溢れた。よかった。生きていた。無事だった。——その、たった一つの事実が。彼の、張り詰めていたものを、すべて、緩めた。
「あの子たちは。ちゃんと……生きて...いる」
涙が、止まらなかった。喜びの。安堵の。そして——まだ、間に合うという。希望の涙が。
エンデヴァーは、何も言わなかった。ただ、静かに、その姿を、見ていた。No.1ヒーローの称号を継いだ男が。かつての、平和の象徴の、涙を。
「……エンデヴァー」。やがて、オールマイトが、顔を上げた。涙に濡れた顔で。けれど、その目には——強い光が、宿っていた。
「あの子たちを、救いたい。今度こそ。私は——もう、間違えたくない」
「ああ」。エンデヴァーが、深く頷いた。
「俺も、同じ気持ちだ。……あの子たちを、あのままには、しておけん」
二人の、かつての、そして、今のNo.1が。
同じ決意を、胸に。静かに、頷き合った。
その決意が、どこまでも、まっすぐで、善意に満ちていることを。二人は、疑いもしなかった。
——ただ。その手が、届く相手のことを。二人は、まだ、何も、知らないのだった。