第四話「空っぽ」
人の心は、たいてい何かで満ちている。
醜さでも、優しさでも、何かしらで。
——だが、この少年の中には。
生きることに使い果たして、何も残っていなかった。
翌朝から、シュンカは淡々と過ごし始めた。
起きて、出されたものを食べ、言われたことをして、隅でぼんやりと座っている。他の子供たちが遊ぼうが喧嘩しようが、一瞥もしない。職員に何を言われても「ふうん」と流す。彼は何にも興味を示さなかった。何も欲しがらなかった。何も怖がらなかった。
まるで、生きているのに“何も生きていない”ような少年だった。
ミカは、その様子を隅からずっと見ていた。
不思議だった。彼女が知る人間は、みんな何かを彼女に向けていた。怒りや、欲や、嘲りや、怯え。職員も、他の子供たちも、こちらに向ける感情は違っても、その奥には必ず“何か”がうごめいていた。だから人は怖かった。何を考えているか、本当のところはわからないから。
でも、この少年は違った。
行動と口にすることが、どこまでも一致している。隠している裏が、どこにも見当たらない。腹を探る必要すらない。彼は、見たままだった。空っぽで、平坦で、何も企んでいない。
ミカは膝を抱えながら、ぼんやりと思った。
――変なやつ。
彼女は“多すぎる”のだ。寂しさも、捨てられた痛みも、抱えきれずに溢れて、夜になると黒いものになって零れ落ちる。なのに、この少年は“何もない”。一滴も残っていない。からっぽ。
正反対だった。溢れる彼女と、空っぽの彼。
その問いを口にするまでに、ミカは何日もかかった。
ある夜、同じ部屋の暗がりで、彼女はとうとうそれを投げた。怖れからでも、敵意からでもない。生まれて初めての、純粋な興味から。
「なあ。――お前、なんでそんなに空っぽなの」
シュンカが、赤い瞳を向ける。
「何も欲しがらない。怖がらない。怒らない。喜びもしない。――なんで、何もないの。お前」
シュンカは少しの間、黙っていた。それから、淡々と語り始めた。悲しげでも、恨めしげでもなく、ただ天気の話をするように。
「……僕は、ずっと生きることに必死だったから」
「生きること?」
「拾われて、“使える”って判断されて。それからはずっと、“役に立つ”ことだけが、生きてていい理由だった。役に立たなければ、要らない。要らなければ――消える。だから必死だった。生き延びることに。それだけに」
彼は天井を見上げた。
「そうしてるとさ、だんだんなくなるんだ。“自分がどうしたい”とか、“何が欲しい”とか。そんなもの、考えてる余裕がない。生き残ることで手一杯で。――気づいたら、空っぽだった。僕には自分の意思なんてない。ただ、生きるためだけに生きてきた。だから何もないんだよ。欲しいものも、怖いものも、最初から一個も持てなかった」
ミカは、息を呑んだ。
彼の“空っぽ”は、冷たさではなかった。生まれつきの無関心でもなかった。それは――生き延びることにすべてを使い果たして、“自分”を育てる余白が一片も残らなかった、子供の傷だった。望むことすら許されなかった、子供のなれの果て。
彼女には、痛いほどわかった。
同じ場所。同じ“使える器”として選り分けられる檻。彼女もここで、すり潰されてきた。――けれど、彼女は“溢れた”。痛みも寂しさも抱えきれずに、化け物になって零れるほど、満ちすぎてしまった。彼は逆に、“空になった”。すべてを生存に注ぎ込んで、一滴も残らなかった。
同じ機械にかけられて、正反対に壊れた、二人の子供。
「……そっか」
ミカは、それだけ呟いた。可哀想、とは言わなかった。彼女は、可哀想がられるのが何より嫌いだったから。きっと、彼も同じだろうと思った。
ただ、彼女は膝を抱えたまま、少しだけ彼のほうへ身を寄せた。
暗がりの中、寝そべったシュンカの肩と、膝を抱えたミカの肩が、ほんの少しだけ近くなる。それ以上は、どちらも何も言わなかった。言う必要がなかった。
空っぽの少年は、まだ知らない。いつか、その何もない器の中に、たった一つだけ“欲しいもの”が生まれることを。生まれて初めての“自分の意思”が、芽吹くことを。
――その芽の名前が、隣で膝を抱えている少女になることを。
暗がりの中で、二つの傷が、少しだけ距離を縮めていた。