僭帝編・第二十八話「前線瓦解」
一人で、前線は崩れた。
戦うという選択肢が、最初からなかったからだ。
——そして、逃げ惑うその背に。
狂信者の祝福が、降り注ぐ。
チェインが、前線へと歩を進める。
ただ歩いているだけ。なのに、ヒーローたちの本能が、悲鳴を上げた。逃げろ、と。
コンボ最大。百。その意味を理解した瞬間、前線の誰もが凍りついた。受ければ終わる。掠っても終わる。あの拳が、肘が、膝が、一発でも当たれば、人体はただ弾け飛ぶ。
そしてチェインの打撃は、拳、脚、肘、膝で、あらゆる距離を支配する。近づけば即死。離れても間合いの内。防御は意味をなさない。
つまり——戦う方法が、ない。
残された選択肢は、たった一つ。逃げることだけだった。
チェインが動いた。
一呼吸の間に、十一発。視認すらできない連撃が、前線を薙ぐ。誰にも触れさせまいと、ヒーローたちが算を乱して後退する。
崩れた。
史上最大の部隊の、その前線が。たった一人の武人に蹴散らされ、陣形を保てず、総崩れとなった。
「退け! 距離を——いや、距離なんてないっ!」
怒号。混乱。逃げ惑う英雄たち。誇り高きヒーローが背を向けて逃げるという、あってはならぬ光景。けれど、それ以外に生き残る術がなかった。
そして——その崩れて固まった人の群れを、見下ろす影があった。
アル・カイド。
彼は恍惚と微笑んでいた。
「ああ……なんて無防備なんだ」彼はうっとりと呟いた。「逃げ惑う羊たち。身を寄せ合って、一つに固まって。……これほど王に捧げ甲斐のある的も、ない」
彼は指を、自らの口の中へ差し込んだ。
迷いなく、歯を数本、引き抜く。痛みに顔が歪む。——けれど、その歪みはやがて、法悦へと変わっていった。祝福の甘美な痛みだと言わんばかりに。
「我が王に、捧ぐ」
引き抜いた歯が、彼の個性で爆弾と化す。それを、崩れた前線のど真ん中へ。雨のように投げ込んだ。
刹那。
大地が割れた。
ダイナマイトと同等の威力が連鎖する。逃げ場のない人の塊を、一息に呑み込んだ。轟音。爆風。立ち上る黒煙。
陣形を崩されたことが、そのまま致命傷に変わった。固まっていたから、逃げ場がなかった。——チェインが崩し、アル・カイドが薙ぎ払う。二人で一つの、完璧な布陣だった。
前線は為す術もなく崩れ去った。
末端から崩す、はずだった。——崩されたのは、ヒーローの側だった。
たった二人。七人のうちの、たった二人で。史上最大の部隊の最前線が、瓦解した。
後方の指揮本部。
次々と届く報告は、どれも絶望的だった。
「前線、壊滅! 負傷者、多数!」
「チェインと、アル・カイド——たった二人です! 二人で、最前線が——」
エンデヴァーは歯を食いしばり、即座に指示を飛ばした。
「負傷者を下げろ! 無事な隊は後退して、戦線を組み直せ! 前に出るな。あの二人の間合いには、絶対に入るな!」
彼の冷静な判断が、辛うじて総崩れを食い止める。だが、その胸中は荒れていた。
……たった二人だ。七人のうちの、たった二人。それで、史上最大の部隊の前線が消し飛んだ。残りはまだ、五人。——そして、あの化け物どもは、まだ本気ですらないかもしれない。
「……作戦は、破綻しています」。参謀役が蒼白な顔で言った。「構成員は崩れない。幹部は一人ひとりが災害級。前提が、何もかも違っていた」
頭を断てば崩れる。——その一語にすべてを賭けた作戦は、最初のひと当たりで砕けた。
ホークスが羽根を繰りながら、低く呟いた。
「なんで……ありえないだろ……なんで、だ……」
退くか。進むか。
退けば、作戦は失敗。あの子供たちを裏社会から引き離す機会は、永遠に失われるかもしれない。進めば——この調子では、何百人ものヒーローが再起不能になりかねない。
エンデヴァーは拳を握りしめた。炎が指の間から漏れる。怒りではない。——自らへの問いだった。
ここで退けば、また子供を見捨てることになる。自分たちの尻拭いをさせた
利用された子供を。自分たちで手放すことに。——だが、これ以上の犠牲は。
「……エッジショット。彼は絞り出した。「空からの偵察を続けろ。残る幹部の布陣を掴め。——闇雲に突っ込めば、同じことの繰り返しだ」
立て直す。けれど、立て直したその先に、勝ち筋があるのかすら、今は誰にも見えていなかった。
崩れた前線。立て直す指揮。——けれど、戦いはまだ、七分の二。
残る五人の刃は、一本も抜かれていない。そして城の最奥には、指一本ですべてを終わらせる王が、静かに座っている。
英雄たちが挑んだのは、倒すべき悪の組織ではなかった。
——守るべき二人の子供を守る、世界で最も固い、愛の城だった。