僭帝編・第二十九話「披露」
崩れたのは、たった二人。
まだ、五人が、残っている。
——そして、その五人ですら。
王の、手を煩わせるまでもない、という。
立て直そうとする、ヒーローたちの前に。残る幹部が、姿を現し始めた。
最初に、異変が起きたのは。再編成しつつあった、一団の中でだった。
ヒーローの一人が、突然、隣の仲間に殴りかかった。「な——何をする!」。止めに入った、別の一人にも、拳が飛ぶ。同士討ち。混乱が、混乱を呼ぶ。
その遠く。ビルの屋上に、一人の女が腰かけていた。手には、一本の笛。
セイレーン。彼女の個性は、調律。音を媒介に、他者の感覚を操作する。今、彼女が狂わせているのは——視神経。ヒーローたちの目に、仲間が敵として映る。誰が味方で、誰が敵か。それすら分からなくなる。
「ふふ。落ち着いて戦えると、思わないことね」。彼女はけだるげに、笛を撫でた。「あなたたちの目は、もう、私のものよ」
視覚を乱された部隊は、統率を失っていく。前も後ろも分からない。誰を庇い、誰と戦えばいいのか。——戦場の秩序が、内側から崩れていった。
混乱の中へ。巨躯が躍り込んだ。
二メートルを超える、圧倒的な体躯。エディ。覇王と呼ばれた男。
彼は、武器を持たない。ただ、素手。だが、その拳が振るわれるたびに、屈強なヒーローが、まるで木の葉のように吹き飛んでいく。
「ぬるいな」。エディは退屈そうに呟いた。全身のリミッターを解いた、その膂力は、人間の領域を超えていた。装甲をまとったヒーローごと、易々となぎ倒す。「もっと、骨のある奴はいないのか」
誰も、彼の間合いに立てなかった。近づけば、一撃で戦闘不能。トップヒーローですら、その拳の前では無力だった。
そして——戦場の一角が、白く灼けた。
イズナ。彼は両手をかざしていた。その掌に、凄まじい熱量が渦を巻いている。
開戦から、彼はチェインの拳を吸い続けた。あらゆるエネルギーを吸収する、その個性で。溜め込んだ膨大な力を——今、解放する。
「悪いな。溜まりすぎて、吐き出さねえと、こっちがもたねえんだわ」
放たれた熱線が、戦場を薙いだ。地を灼き、空気を焦がす。ヒーローたちは、遮蔽物の陰へ飛び込むしかない。頭を上げれば、焼かれる。前進など、望むべくもなかった。
吸って、吐く。ただ、それだけ。だが、その吸収と放出の、規格外の容量が、戦線を丸ごと封じていた。
そして——最も恐ろしいのは。姿の見えない、刃だった。
後方で、指揮を執っていたヒーローが、声もなく崩れ落ちる。何が起きたのか、誰にも分からない。ただ、一人、また一人と。要となる者から、静かに戦線を去っていく。
赫飛。伝説の殺し屋。影を渡り、時間を加速させる。彼が動いた瞬間を、捉えられる者はいない。気づいたときには、もう隣にいる。あるいは、もういない。
「悪く思うなよ。……仕事なんでね」。声だけが、どこからともなく響く。姿は、どこにもない。——指揮系統が、内側から蝕まれていく。誰も、彼を見つけられないまま。
そして。この絶望的な戦場の、すべてを。
一人の男が、静かに見つめていた。
蔦漆。戦力だけを見れば、幹部の中で最も下。前線には決して立たない。だが——彼こそが、この戦場の指揮者だった。
誰を、どこに配し。どの部隊を、どう崩すか。セイレーンの位置。イズナの射線。赫飛が狙うべき要。——そのすべてを、彼が差配していた。戦場を盤面として見下ろし、ヒーローのあらゆる動きを、先回りして潰していく。
「……ふむ。この程度、ですか」。彼は静かに呟いた。感情の乏しい声だった。「まあ、いいでしょう。ボスの御手を、煩わせるまでもない」
*
指揮本部は、沈黙に包まれていた。
視覚を乱され。覇王に蹴散らされ。熱線に封じられ。見えない刃に要を断たれ。そして、そのすべてが、一人の頭脳に、掌の上で転がされている。
五人。ただ、五人の幹部。それだけで、史上最大の部隊が、手も足も出せずにいた。
「……嘘だろう」エンデヴァーの声が掠れた。
この幹部たちを、突破することなど、できるのか。——否。近づくことすら、叶わない。
ならば——その、さらに奥。この化け物たちが守り抜いている、あの子たちのもとへ。どうやって、辿り着けばいい。
救い出す。そのために、来た。——だが、その道は。五人の化け物によって、完全に閉ざされていた。
立て直しても。策を練っても。届かない。あの子たちのもとへは、指一本、触れられない。
英雄たちの善意は。その入り口で、はね返されていた。