僭帝編・第三十一話「敗軍」
剣も、盾も、通じなかった。
言葉も、善意も、届かなかった。
——英雄たちは、その日。
生まれて初めて、敗れることを、知った。
撤退命令が、下された。
救出は、不可能。前提は、何もかも崩れた。これ以上留まれば、犠牲が増えるだけ。——英雄たちは、傷つき、うなだれ、戦場を後にした。
誰も、口を開かなかった。勝てなかった、のではない。——挑む土俵にすら、立てなかった。その事実が、重くのしかかっていた。
作戦本部に戻っても。空気は、通夜のように沈んでいた。
負傷者の報告。損害の集計。淡々と、事務が進む。だが、誰の顔にも、生気がなかった。
その沈黙を。破ったのは、ホークスだった。
彼は立ち上がり——そして、深く頭を下げた。
「……本当に、すいませんでした」声が震えていた。「全部、俺の読み違いです。要を抜けば崩れると、断言した。だからこの作戦が組まれた。——なのに。全て、外しました。俺のせいです」
あの飄々とした男が。誰よりも自信を持って、瓦解作戦を提案した、あの男が。頭を下げ続けていた。
「ホークス」声をかけたのは、エンデヴァーだった。「頭を上げろ」
「ですが——」
「あれは、想定できるものじゃない」エンデヴァーは静かに言った。
「お前の論理は、筋が通っていた。誰が聞いても頷く、読みだった。俺も、賛成した。——お前一人の責任じゃない」
ベストジーニストも頷いた。「その通りだ。あの読みは、正しかった。……少なくとも、正しいはずだった」
誰も、それ以上は言わなかった。何かが、どこかで、決定的に食い違っていた。だが、それが何なのか。この場の誰にも、まだ、掴めてはいなかった。
ただ——エンデヴァーが、ぽつりと漏らした。
「……あるいは。ただ、遅かったのかもしれんな」
その一言に。誰も、答えなかった。ただ、重い沈黙だけが、部屋を満たしていた。
会議が終わり。皆が去った、後。
オールマイトは、一人。薄暗い控室に、残っていた。いや——正確には、一人ではなかった。緑谷が、少し離れて、立っていた。何も言えずに。ただ、師の背中を見つめて。
オールマイトは、椅子に腰を下ろしていた。痩せた、その背が。ひどく小さく見えた。
「……届かなかった」
絞り出すような、声だった。
「私は。あの子に、もう——届かないのか」
その手が、震えていた。
「あの子が独りだった時。私は、そばにいてやれなかった。だから、あの子は。AFOを、殺すことになった。……ファナティカも。あんな幼い手で。人を、殺させてしまった」
緑谷は、動けなかった。かける言葉が、見つからなかった。
「そして、今。あの子は、裏社会の頂に立とうとしている。それを——私は、ただ見ていることしか、できない。手を伸ばしても、拒まれる。救おうとしても——ほっといてくれと、言われる」
オールマイトの目から。一筋、こぼれた。
「あの子は、笑わない。あの冷たい目のまま。人を殺し、王になっていく。——なのに、私は。何もできない。届かない。……止められない」
彼は、顔を覆った。
「私が——悪いんだ。全部。あの日、あの子を救えなかった。私が。この国が。大人たちが。——あの子から、光を奪ったんだ。だから、あの子は。ああなった。全部——私の、せいだ」
平和の象徴だった男が。一人の子供を救えなかった、その悔恨に。声を殺して、泣いていた。
緑谷は、ただ立ち尽くすことしか、できなかった。師の背中は。あまりにも小さく、そして——その慟哭に答えられる者は。この世界のどこにも、いなかった。
英雄は。守れなかった。
力でも。善意でも。涙でも。——あの小さな王には。何一つ、届かないまま。
夜が、更けていく。
救えなかった、という、たった一つの事実だけを抱いて。かつての最強のヒーローは。ただ、泣き続けていた。