僭帝編・第三十二話「余燼」
英雄たちが、去った後。
城には、静かな、安堵が、満ちていた。
——そして、遠く。
一人の男が、その報せに、歯を、軋ませていた。
英雄たちの大軍が、退いた後。
僭帝の拠点には。奇妙な静けさが、戻っていた。傷ついた構成員も、幹部も。誰もが、生き延びた。そして——守り抜いた。
「……勝ったな」。イズナが、地面に大の字に寝転がって呟いた。
「ヒーローの総力戦を跳ね返した。とんでもねえことだぜ、まったく」
エディは、静かに頷いた。傷だらけの、その顔に、満足げな色があった。
「ボスを守れた。それで十分だ」
その言葉に。他の幹部たちも頷いた。誰も、自分の武功を誇らなかった。誰も、報酬を求めなかった。ただ——王を守れた。その一点にのみ、彼らは満たされていた。
アル・カイドが、恍惚と笑った。
「王が、ここにおられる。それだけで、良いのです。我らは——ただ、それだけの、ために」
シュンカは。その光景を、少し離れた場所から見ていた。
傷ついた幹部たち。血を流し、それでも笑っている。「ボスを守れた」と。——彼らは、シュンカのために、命を賭けた。何度も。今日も。
……なぜ、だろう。
シュンカは、いつも思う。自分は、ミカを守るために、いる。ミカといられれば、それでいい。他は、どうでもいい。——そのはず、だった。
なのに。この傷だらけの男たちが、自分を守れて良かったと笑うのを見ていると。
胸の奥。どこか、名前のつかない場所が、かすかにざわつく。何か——落ち着かないような。むずがゆいような。——これは、何だろう。喜び、とも違う。戸惑い。ただ、戸惑い。
「なぜこの人たちは、僕のためにこんなに」。
分からなかった。シュンカには、その感覚の名前が、まだ、分からなかった。
ただ——そのざわめきは。決して、不快なものではなかった。それだけは、確かだった。
なぜなのかは。分からないまま。
僭帝が、ヒーローの総戦力を退けた。
その報せは。瞬く間に裏社会を駆け巡った。
「聞いたか。僭帝が、ヒーローの総力戦を跳ね返したらしいぞ」
「あの、AFOを殺した子供の組織か……」
「もう、格が違う。国家の総力を退ける組織なんて。今の日本に、他にあるか」
噂は、恐怖と羨望を伴って広がった。ヒーローに勝てる組織。それは——もはや、裏社会の常識を超えた存在だった。
力を持て余していた裏の強者が。「あの組織なら」と、加入を決意する。中堅の犯罪組織が。「敵に回るより」と、傘下に入ることを考え始める。——ヒーローすら退ける力の前で。抗う者より、従う者が増えていく。
僭帝は。誰も望まぬうちに。さらに巨大になっていった。
その報せは。とある隠れ家にも、届いていた。
「ヒーローを……撃退、だと……?」
死柄木弔の喉から。掠れた声が、漏れた。
握りしめた拳が、震えていた。
ヒーロー社会を、壊す。それが、彼の悲願だった。この歪んだ世界を、すべて壊し尽くす。
——そのために、力を求め続けてきた。渇望してきた。なのに——届かない。ヒーローに追われ、逃げ、隠れる。それが今の自分だ。
なのに。あいつは。
「あいつは……持ってるって、いうのか……! 俺が、喉から手が出るほど、欲しい……ヒーローを、壊せる、力を……!」
求めもせず。望みもせず。あの無感動な子供は。彼が渇望し続けた、その力を。当たり前のように握っている。使う気すら、ないくせに。
「ふざ、けるな……! なんで、あいつなんだ……! なんで、いつも……あいつばかりが……!」
嫉妬が。腹の底から噴き上がった。黒く、煮えたぎる、嫉妬が。
その傍らに。白衣の影が立っていた。
ドクター。感情の読めない瞳で、荒れ狂う死柄木を、静かに見下ろしている。
「……ファナティカから、話は聞いているよ」
ドクターは淡々と言った。
「君を私のもとへ寄越したのは、彼女だ。君を——作り変えるために」
死柄木の荒い息が、わずかに収まる。
「これから始める改造の苦痛は、想像できるものではない」
ドクターは続けた。
「君の身体は造り変えられ、その力は飛躍的に増す。だが——その過程は。相当な苦痛を伴う。並の精神では、耐えられん」
彼は、静かに問うた。
「大丈夫か? ——覚悟は、できているのか」
死柄木は。血走った目で、ドクターを睨んだ。そして——笑った。壊れたように。
「苦痛……? そんなもの……いくらでも、くれてやる。この身体が、どうなろうと、構うものか。——力さえ、手に入るなら」
あいつを。あいつが持っている、すべてを。この手で壊せる力さえ、手に入るなら。
「早く……始めろ。俺を——造り変えろ」
静かな狂気が。隠れ家の闇に、満ちていく。
英雄を退けた王の、栄光の影で。もう一つの災厄が。ゆっくりと、目を覚まそうとしていた。