第五話「商人」
この世の誰にも、裏がある。欲がある。角がある。
——それが、少女の知る世界のすべてだった。
だからその夜、彼女は自分の目を疑った。
どれだけ探っても、何も引っかからない少年を。
それは、たぶん、心を開きかけた反動だった。
空っぽの問答を交わしたあの夜から、ミカの中で、何かがほどけかけていた。誰にも見せたことのない傷を、初めて口にした。その揺らぎが、彼女の奥底に眠っていたものを、揺り起こしてしまったのかもしれない。
胸の底から、黒い靄が滲み出した。彼女の意思とは無関係に、それは膨れ上がり、部屋の隅で形を結んでいく。
「……っ、やだ」。ミカの顔から、血の気が引いた。「出てきちゃう。――シュンカ、離れて。私、お前を傷つけ――」
靄が、固まった。
黒い外套をまとった、長身の影。山羊の頭。慇懃な物腰の“商人”が、そこに立っていた。彼女の猜疑から生まれた式神。
ミカは凍りついた。来てしまった。私の怪物が。シュンカを。
――だが。
商人は、ミカには目もくれなかった。ゆっくりと、床に座るシュンカのほうへ向き直る。慇懃に、頭を垂れた。
「おや、おや。妙な坊やだ」。蜜のような声だった。「ねえ、坊や。一つ、私と取引をしませんか。私は、お客様の欲しいものを差し上げられる。何でも、望むものを言ってごらんなさい。――人は誰しも、何かを欲しがるものでしょう?」
それは、ミカ自身の世界観だった。誰にでも裏がある、欲がある、角がある。その確信が形を取って、シュンカの“角”を暴こうと、探りを入れていた。
シュンカは、商人を平坦に見上げた。
突然現れた怪物を前に、怖がりもしない。普通の子供なら泣き叫ぶ場面で、彼はあくびでも噛み殺すように、気だるげに応えた。
「取引? ――別にいいや。僕、何も欲しくないし」
商人の動きが、止まる。
「……何も?」。山羊の眼が細まった。「ご謙遜を。力でも、安全でも、自由でも――何か一つくらい、あるでしょう。誰にでもあるものですよ、欲は」
「ないよ、本当に」
シュンカは淡々と言った。それでも商人は、引き下がらなかった。札を変えて、次々と差し出していく。
「では、こういうのはどうです。あなたを傷つけてきた者すべてへの、復讐。この力があれば、叶えられますよ」
「いらない」
「名声は? 誰もがあなたにひれ伏す。施設の連中も、二度とあなたを見下せなくなる」
「どうでもいい」
「では、永遠の命を。死の恐怖から、未来永劫、解き放たれる」
「……興味ない」
「美しいものを。富を。知識を。あるいは――この退屈な世界の、すべてを支配する力を」
「全部いらない」
シュンカは、心底面倒くさそうに遮った。
「さっきから、何なの。欲しいとか、望むとか、そういうの、僕にはないんだって。生きてるだけで手一杯だったから。だから、お前の取引――僕には、何の意味もないよ」
商人は、言葉を失った。
差し出した札の、すべてが宙を切っていた。復讐。名声。永遠。富。支配。人を釣るためのありとあらゆる餌が、この少年には、一つも引っかからない。欲を突く針の刺さる場所が、どこにもない。空っぽ。完全な、無欲。商人の蜜は、空の器に一滴も染み込まなかった。
最初の一手から、それは“死に札”だった。
ミカは、息を呑んで、それを見ていた。
彼女の中で、何かが音を立てて崩れ始めていた。
あの商人は、彼女自身だった。彼女の「どうせ誰にでも裏がある」という世界観そのものだった。物心ついた頃から、人を見れば必ず裏があった。優しい顔の下に打算があり、笑顔の奥に嘲りがあった。だから誰も信じられなかった。だから一人になった。その確信が、怪物の形を借りて、シュンカの裏を暴こうとした。
なのに、何も出てこなかった。
彼女の猜疑が、総当たりで欲を突いて、ことごとく空を切った。彼女自身の心の一番暗い部分ですら、シュンカからは、一片の裏も掘り出せなかった。
――ああ。
本当に、何もないんだ。本当に、裏がないんだ。
ミカが生まれて初めて出会う、嘘のない人間。それを暴いたのは、彼女の理屈ではなかった。彼女の不信そのものが、彼女の代わりに確かめて、敗北したのだ。「誰も信じられない」が、「誰も信じられない」自身の手で、反証された。
黒い商人は、探るものを失い、やがて霧のようにほどけて、ミカの中へと還っていった。
部屋に、再び静寂が戻る。
ミカは、呆然とシュンカを見ていた。今しがた、自分の中の一番頑なな部分が、根こそぎ崩されたばかりだった。怖さと、それを塗り潰していく、何か温かい確信を、同時に胸に抱えて。
「……お前、本当に変なやつ」
ようやく、それだけ言った。
シュンカは、何のことだか分からない、という顔で、また床に寝転がった。
「ふうん」
いつもの、気だるげな相槌。けれど、その声が、今夜はなぜか、ミカの胸に、ひどく安らかに落ちてきた。
怪物すら騙せない、嘘のない少年が、すぐ隣で、無防備に目を閉じている。
その事実だけが、彼女の長い不信に、初めて、小さな穴を空けていた。
ミカの個性は
フロム・ソフトウェア制作 ELDENRING NIGHTREIGN から 8体の夜の王の名前と姿だけお借りしています(能力は独自解釈)