第35話「対面」
大義を掲げる者が、何も掲げぬ者の前に立った。
——彼は、そこに己の理想を見た。
見えていたのは、鏡に映った、己自身だった。
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僭帝の城。
その日、門をくぐったのは、西の巨人だった。
リ・デストロ。異能解放軍の総帥。十一万を束ねる、大義の男。護衛はつけていない。単身での訪問だった。それは礼であり、同時に、示威でもある。私は、あなたを恐れていない。そう告げるための、無防備だった。
通されたのは、城の広間。
蔦漆が、彼を迎えた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
慇懃な、隙のない笑みだ。「ボスがお会いになります。……もっとも、あまり、話は弾まぬかと存じますが」
リ・デストロは、その言葉の意味を、まだ、測りかねていた。
広間の奥に、その子供はいた。
白い髪。赤い目。玉座と呼ぶには、あまりに簡素な椅子に、背を預けている。傍らには、黒髪の少女。二人は、何かを、小声で話していた。菓子の話か、天気の話か。そんな、他愛のない響きだった。
リ・デストロは、息を呑んだ。
これが。
英雄の全軍を、ただ一度で退けた王。裏社会の化け物どもが、頭を垂れる王。——それが、こんな、幼い子供。
だが、彼はその幼さに、逆に昂ぶった。
なんと美しい光景だろう、と彼は思った。生まれ持った力を、社会のくびきに縛られることなく、極限まで、自由に振るう子供。誰の許しも請わず、誰の顔色も窺わず。ただ、己の力を、己の意志のままに。
これこそ、我々の思想の、究極の体現ではないか。
超常は解き放たれるべきだ。この子供は、それを、証明している。理屈ではなく、その存在そのもので。
彼は、進み出た。
「初めてお目にかかる」リ・デストロは、深く、頭を下げた。「異能解放軍、リ・デストロと申します」
子供は、彼を見なかった。少女の髪に、指を絡めたまま、ちらり、と視線だけを寄越して——それきり、また少女の方へ戻した。
無礼、とは思わなかった。リ・デストロは、そういう男ではない。彼は、目の前の子供を、対等の——いや、ある意味では、自分より上の存在として、遇するつもりで来ていた。
「あなたの成した業を、聞き及んでおります」彼は語り始めた。
「英雄の全軍を退けた。国家の権威を、たった一度で、地に落とした。……あれは、我々にとって、福音だった」
彼の声に、熱が籠もる。
「この世界は、間違っている。個性という、人が生まれ持った力を、法が縛り、免許が縛り、社会が縛る。人は、己の力を、己のものとして振るうことすら、許されない。——それは隷属だ」
「あなたは、それを破ってみせた。誰の許可も得ず、ただ、己の力を振るった。そして、旧い秩序は、あなたの前に膝を屈した」
彼は、両手を広げた。
「あなたこそ、解放の体現者だ」
広間に、彼の声が響いた。
そして、静まった。
子供は、まだ、少女の髪を、指で梳いていた。
「……何が言いたいの」
初めて、子供の口が開いた。
その声には、何もなかった。怒りも、興味も、警戒も。ただ、話が長いことへの、微かな倦みだけがあった。
リ・デストロは、構わず続けた。むしろその素っ気なさに、彼は、より深く、この子供を信じた。飾らぬ者だ、と。大義を語らずとも大義を生きている者だ、と。
「手を組みたい」彼は言った。
「あなたの力と、我が軍の思想。この二つが結べば、旧い世界は終わる。個性が真に自由な時代が、来る。——共に、この世界を変えましょう」
彼の胸には、確かな昂揚があった。
この子供が頷けば、時代が動く。11万という同志の、悲願が叶う。彼はその返答を、待った。
子供は、少し首を傾げた。
そして、言った。
「変えなくていいよ」
「……何と?」
「世界。別に、今のままでいい」。子供は、言った。「変わったら、面倒くさい」
リ・デストロの、思考が、一瞬、止まった。
面倒くさい。
彼が、生涯を捧げてきたもの。父から受け継ぎ、11万という同志と分かち合ってきた、悲願。旧い秩序を打ち破り、個性を解き放つという、その、大義。——それを、この子供は、面倒くさいと言った。
否定したのではない。反論したのでもない。ただ、興味がないのだ。
「……あなたは」。リ・デストロは、慎重に、言葉を選んだ。
「では、何を、望んでおられる」
子供は、隣の少女を、見た。
少女は、その視線に気づいて、何、と小さく返した。子供は、何でもない、と首を振り、そして、リ・デストロの方へ、初めて、まともに顔を向けた。
「僕は」
その赤い目には、何も、映っていなかった。大義も、野心も、憎しみも。目の前の男すら、映っていないようだった。
「何も、要らないよ」
広間が、静まり返った。
蔦漆は、壁際で、静かに息をついた。またか、と思った。この王は、いつも、同じことを言う。そして、それを聞いた者は、いつも、同じ顔をする。
リ・デストロは、立ち尽くしていた。
彼は、理解しようとしていた。この子供の言葉を、己の枠組みに、収めようとしていた。何も要らない——それは、謙遜か。あるいは、駆け引きか。あるいは、既に全てを手にした者の、余裕か。
だが、どれも、違った。
この子供は、本当に、何も求めていない。
力も、地位も、思想も、世界も。何一つ、欲していない。ただ、隣の少女と、静かに座っている。——そのために、英雄の全軍を、退けたのだ。
リ・デストロは、悟った。
この子供は、解放の体現者などではない。
解放を、必要としていないのだ。
縛られていないから、解き放たれる必要もない。抑圧されていないから、抗う理由もない。この子供は、最初から、あらゆるくびきの、外にいる。彼が生涯をかけて壊そうとしてきた壁は、この子供にとって、初めから、存在しなかった。
——私は、この子供に、己の理想を、見ていた。
だが、この子供が見ていたのは、私ではなかった。隣の、少女だけだった。
「……無礼を、申し上げた」
リ・デストロは、深く、頭を下げた。その声には、先ほどまでの熱は、なかった。
子供は、もう、こちらを見ていなかった。少女が、何か言い、子供が、短く応える。二人だけの、静かな時間が、また、流れ始めていた。
蔦漆が、進み出た。「お帰りは、こちらへ」
リ・デストロは、頷いた。そして、広間を出る間際、もう一度だけ、振り返った。
白い髪の子供が、黒髪の少女の隣で、何かを、笑うでもなく、言っている。
あれが、この国の裏側を、震わせている王だ。
あれを、味方につけることも、敵に回すことも、私にはできない。味方につけるには、差し出すものがない。あの子供は、何も、欲しがらないのだから。敵に回すには——
彼は、身震いした。
あの子供が動く理由は、ただ一つ。隣の、少女だ。
あれに、触れてはならない。
城を出た彼を、夜風が撫でた。
馬車に乗り込むまで、リ・デストロは、一言も、発しなかった。胸の中では、幾つもの計算が、目まぐるしく、組み直されていた。
思想では、あの王は動かせない。金でも、地位でも、力でも。
ならば、この盤面を、どう読む。
彼は、拳を、握った。
——帰ったら、すぐに、幹部を集めねばならぬ。
算盤を、弾き直さねばならない。