三つ巴編 第4話「逆鱗」
解放を叫んだ男たちが、たった一人の子供に頭を垂れている。
——その屈辱が、澱となって沈んでいた。
そして、東から流れてきた一つの毒が、その澱に火を点ける。
異能解放軍の、末端の詰所。
薄暗い一室に、数人の構成員が額を寄せていた。古参もいれば、血の気の多い若手もいる。共通しているのは、その顔に浮かんだ拭いきれぬ不満だった。
「……なあ、おかしくないか」
古参の一人が、声を潜めた。
「俺たちは異能解放軍だぞ。個性を解き放ち、あらゆる鎖を断ち切る。それが、俺たちの掲げた大義だったはずだ。なのに」
彼は、吐き捨てるように続けた。
「今、俺たちがやってることは、何だ? たかがガキ一人が頭の組織に、媚びを売って、機嫌を窺ってる。不可侵だと? ——これが、異能解放軍の誇りか」
周囲の数人が、重く頷いた。
リ・デストロの通達は、末端まで行き渡っていた。僭帝には手を出すな。あの王を刺激するな。
首魁の言葉は絶対だ。だが、頭では分かっていても、腹の底の澱はどうにもならなかった。
解放を掲げた軍勢が、一人の子供への恐怖という、これ以上ない重い鎖に、自ら繋がれている。その矛盾が、彼らの誇りを、じわじわと腐らせていた。
「……でもよ」若手の一人が、身を乗り出した。声に、昏い熱がある。「聞いたか。東の噂だ」
「東?」
「ああ。裏のネットに、妙な話が流れてる。
——『僭帝の王を殺したくば、隣の少女を殺せ』」
場の空気が、ぴくりと動いた。
「どこの誰が流したのかは知らねぇ。だが、こいつが本当なら——」。
若手の目が、ぎらりと光った。
「あの王の強さは、全部、隣のあの女に繋がってるってことだろ。あの女が王の急所だ」
「……つまり」。別の一人が、喉を鳴らす。
「あの女さえ消せば」
「王は、ただのガキに戻る」
誰かが、そう言い切った。
詰所の空気が、一変した。不満という澱が、たった一つの噂を触媒に、行動の熱へと変わっていく。
「考えても、みろ」。若手が、まくし立てる。
「あの女一人だ。あの女一人を消すだけで、僭帝は崩れる。あの化け物どもの根っこが枯れる。
——そうすりゃ、俺たちは誇りを取り戻せる。
子供に媚びる屈辱から、解放される」
「だが……リ・デストロ様の命令は」
「知るかよ、そんなもん」。若手は、鼻で笑った。
「首魁が動かねぇなら、俺たちが動く。成功すりゃ、誰も文句は言えねぇ。俺たちは異能解放軍の誇りを守った英雄だ」
愚かだった。あまりにも愚かだった。
彼らは、何も分かっていなかった。あの噂が、どれほどの地獄への引き金か。あの少女に手を出すことが、何を意味するのか。
——そして、その噂を裏に流した者が、どんな目的を抱いていたのか。
誰も、知らなかった。
東の、暗い場所で。人であることをやめようとしている男が、こう囁いていたことを。己が動けぬ間に、敵を削るための、静かな毒として。
その毒が今、最も愚かな器に注ぎ込まれ、暴発しようとしていた。
穏やかな、昼下がりだった。
黒塗りの車が、街道を滑るように走っていた。
後部座席にミカ。その両脇と助手席に、
セイレーン、チェイン、アル・カイド。
僭帝でも指折りの三人が、たった一人の少女のために、護衛についていた。
セイレーンは、普段からミカの身の回りを世話する、数少ない女性幹部だ。同性ということもあり、ミカも彼女の前では、わずかに気を許す。
「……べつに。あたし一人でも、平気だけど」。
ミカが、ぶっきらぼうに呟く。
「いいえ、ミカ様」。チェインが、生真面目に応えた。「貴女に万が一があれば、我々の存在意義が、なくなりますので」
アル・カイドは車内でひとことも口を開かなかった。仮面の奥から、ただ静かに、周囲の気配を探り続けている。我らが王がこの世で唯一、心を寄せる御方。その御身を守ることは
彼にとって祈りにも等しい聖務だった。掠り傷一つ、影さえも近づけてはならない。
セイレーンもまた、窓の外に視線を走らせながら、静かに座っている。彼女の耳は、常人には聞こえぬ音の綻びを、拾い続けていた。
——その時だった。
窓の外。空気が、歪んだ。
次の瞬間、轟音とともに、何かが車を横合いから撃ち抜いた。車体が大きく傾ぎ横転しかける。
待ち伏せ。複数の襲撃者。
だが。
その刹那、三人の動きは常軌を逸していた。
チェインが、ミカを抱え込む。同時にセイレーンが、短く笛を吹いた。澄んだ音が空気を裂く。飛来する第二撃を放った襲撃者の照準が、ぐらりと狂う。狙いを見失った弾丸が、あらぬ方向へ逸れた。視神経を、乱されたのだ。
そして、アル・カイドが車の外へ身を躍らせ——爆ぜた。
三倍の爆炎が、迫る襲撃者の一団を、正面から薙ぎ払う。
ミカの身体には、掠り傷一つ、付かなかった。三人の壁が、完璧に彼女を守り抜いた。
砂塵が晴れる。
チェインが、ミカを背に庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。
その表情は——いつもの生真面目な仏頂面では
なかった。
怒り。底冷えのする、怒り。
「……今」。低い、地を這うような声。
「誰が、ミカ様に手を出した」
セイレーンが、笛を口から離す。その目は、凍りついていた。普段の穏やかさはどこにもない。
アル・カイドの、再生した肌の下から、
抑えきれぬ激発が噴き上がった。神が唯一、慈しむもの。その御身を汚さんとした。
——彼にとって、それは万物への冒涜に等しかった。
「我らが王の御物に、傷をつけようとは。……万死。いや、万死でも足りぬ」
三人の全身から、殺気が立ち上る。それは、もはや護衛のそれではなかった。
——処刑人の気配だった。
「セイレーン」。チェインが、短く言った。
「ミカ様を、すぐ城へ。最優先で」
「……わかってる」。セイレーンの声は、低く震えていた、怒りで。「この子に、指一本。——絶対に、許さない」
彼女は、ミカを庇うように抱き寄せながら、砂塵の向こうを睨みつけた。倒れ伏す襲撃者たちへ向ける視線は、氷のように冷たい。
「城へ運んだら、こいつらのことは……存分に、話を聞かせてもらう」
たった一つの愚行が、最も触れてはならない逆鱗に触れた。
幹部たちの怒りは、すでに極限に達している。
——けれど、それすら前座に過ぎなかった。
この報せが、奥の間に座る白い王のもとへ辿り着いた時。世界は初めて、本物の「終わり」を見ることになる。