三つ巴編 第6話「線引き」
王は、剣を半分抜いて、そして静かに納めた。
——「一度だけ」と、彼は言った。
それは慈悲では、なかった。
ただ、たった一人を守るための、線引きだった。
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報告を受けた瞬間、リ・デストロの顔から、さあ、と血の気が引いた。
「……何だ、それは」。彼の声が震える。「我が軍の一部が。僭帝の、あの少女を。——襲撃した、だと?」
部下が、蒼白な顔で頷く。
次の瞬間、リ・デストロは、机を両の拳で叩いた。轟音。執務室が、びりびりと揺れる。
「——何を、しているんだ! あの馬鹿どもは!!」
彼は、誰よりも深く理解していた。あの王が、何も望まぬ代わりに、たった一つ、決して譲らぬもの。それが、あの少女。
「彼女に手を出せば、世界を敵に回す」
それを、リ・デストロは、あの子供の瞳の奥に、確かに見た。だからこそ、あれほど慎重に、不可侵を選んだのだ。
なのに。その約定のインクも乾かぬうちに、自分の足元の愚か者どもが、最も踏んではならぬ地雷を踏み抜いた。
数万の同志の命が、今、一瞬で天秤に乗せられた。
「——謝罪の使者を、立てろ! 最上級の礼をもって! 詫びの品も、考えられる限り最高のものを揃えろ! 一刻も早く、僭帝に届けるんだ!!」
部下たちが、弾かれたように動き出す。
「そして! 内部を洗え! 一体、誰が、誰の指図で、こんな真似をしたのか。関わった者は、一人残らず引きずり出せ! 我が軍は、この凶行に一切関与していないと——証明するんだ!!」
部下たちが駆けていく。その背を見送りながら、リ・デストロは崩れるように椅子に腰を落とした。
——間に合うのか。
いや。そもそも、あの王に「謝罪」など、意味を持つのか。
彼の脳裏に、あの子供の凪いだ瞳が蘇る。あれは、脅しではなかった。あの子にとって、あれは、ただの事実。世界の法則。——詫びで、曲げられるようなものではなかった。
冷たい汗が、リ・デストロの背を伝った。
僭帝の門に、異能解放軍の使者が到着した。
仰々しい詫びの品々を携えて、使者は深々と頭を垂れた。
「——この度は、誠に、申し訳ございません」声が震えている。
「我々は、本当に、命令など一切しておりません。一部の暴走分子が、独断で引き起こしたこと。今、必死に調査しております。——我々、異能解放軍に、僭帝と敵対する意思は、断じてございません。どうか、ご寛恕を」
その言葉を聞いた瞬間、幹部たちの怒りが、爆発した。
「——ふざけるな」チェインが、低く吐き捨てる。「命令していない、だと? 暴走分子の、独断だと?」
エディが、一歩踏み出し、使者を見下ろした。その巨躯から、凄まじい圧が放たれる。
「お前は今、とんでもないことを言ったぞ」冥王の声が、地を這う。
「『命令していない』——それは、つまり。お前らの組織は、下っ端一人、制御できていないという、証明じゃないか」
使者の顔が、引き攣る。
「いいか、よく聞け」エディは続けた。
「意図があろうが、なかろうが、関係ない。お前らの組織が存在する限り——また、次の馬鹿が、ミカ嬢に手を出すかもしれない。『制御できない』。それは、お前らが、それ自体で脅威だと白状したようなものだ」
謝罪は、火に油を注いだ。
詫びれば詫びるほど、「制御できない組織」という事実が際立つ。——それは、ミカの安全にとって、最悪の答えだった。
幹部たちが激昂する、その傍らで。
シュンカは、ただ静かに座っていた。
彼は、使者を見ていた。怒りもなく、憎しみもなく。ただ——値踏みするように。
「ねえ」シュンカが、ぽつりと口を開いた。
場が、一瞬で静まり返る。
「君たちは、ミカに手を出した。そして、『自分たちには、止められなかった』って、言うんだね」
彼の赤い瞳が、使者を捉える。
「——じゃあ、次は。どうやって止めるの?」
使者は、答えられなかった。
その沈黙こそが——彼らの組織の運命を、決めかけた。
張り詰めた沈黙。
幹部たちは、今にも動き出さんばかり。使者は、死を覚悟して、蒼白になっていた。すべての視線が、たった一人の子供に注がれる。その裁定に、数万の命が懸かっていた。
シュンカは、長い睫毛を一度伏せて、そして、静かに口を開いた。
「——一度だけ、許してあげる」
使者が、弾かれたように顔を上げる。
「ミカは、無事だった。だから、今回は見逃す。……でも」
彼の赤い瞳が、すっと細められた。声の温度が、氷点下まで落ちる。
「次は、ない。——次に、ミカに何かあったら。その時は、絶対に許さない」
彼は、一語一語、区切るように続けた。
「下っ端の暴走だろうが、事故だろうが、知らない。『わざとじゃなかった』なんて言い訳は、一切聞かない。——その瞬間、君たちの組織は、この世界から消える。一人残らず。それだけは、覚えておいて」
使者の全身から、力が抜けた。助かった。あの、AFOを一撃で屠った王に、死を覚悟して、許された。
「あ……ありがとう、ございます! ありがとう、ございます!」使者は、床に額を擦りつけ、震える声で、何度も礼を述べた。
使者が退出したあと、チェインが、複雑な表情で呟いた。
「……ボスは、お優しすぎる。ミカ様に牙を剥いた連中だ。俺なら、問答無用で斬っていた」
エディが、低く言った。「……だが、それが、あの方の器だ。怒りに任せて、数万を屠ることもできた。それでも、あえて一度、手を差し伸べた」
だが——当のシュンカは。
別に、優しさで許したわけでは、なかった。
彼の頭にあったのは、ただ一つ。ミカの安全だった。
あの子は、無事だった。それに、下っ端の暴走で、リ・デストロの意図ではないと分かっている。向こうは、慌てて詫びに来た。——なら、今ここで、数万を相手に戦を始める理由が、ない。
いや。むしろ、と、シュンカは静かに思う。
今、異能解放軍を全部敵に回せば、大きな戦になる。世界が荒れる。その混乱の隙に、また誰かが、ミカに手を伸ばすかもしれない。——それは、駄目だ。数万を消すこと自体が、ミカを危険に晒す。
だから、消さない。今は。
もし次、ミカに何かあれば——その時は、何の躊躇いもなく、消す。世界がどうなろうと、関係ない。
彼にとって、今の「許し」は、慈悲ではなかった。ただの——線引きだった。ミカという、たった一つの一点を、守るためだけの。
「……ミカ」。シュンカは、奥の部屋へと歩いていく。もう、使者のことなど、頭から消えていた。彼の世界は、たった一人で回っている。
王は、一度だけ、剣を納めた。
数万の命は、辛うじて繋がった。——けれど、それは、糸より細い、猶予の上に。
「優しすぎる」と、臣下は言った。だがその優しさの正体は、底冷えのする、ミカ一点への執着だった。
次にあの線を越えた瞬間。世界は、今度こそ本物の終わりを見る。