三つ巴編 第7話「鎖」
生き延びる、ための最も確かな道は。
——誇りを、鎖で縛ることだった。
大義の軍勢は、たった一人の子供の影に、自らを繋いだ。
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使者が、本拠へと戻ってきた。
リ・デストロは、執務室で、微動だにせず報告を待っていた。最悪の場合、次にこの扉を開けるのは、僭帝の軍勢か、あるいは、あの白い死神本人か。
使者が、転がり込むように膝をついた。
「——お、お許しを、いただきました! 一度だけ、一度だけ、と! ただし——」
彼は、震える声で、あの王の言葉を、一字一句違えず伝えた。次はない。暴走だろうが、事故だろうが、容赦はしない。——次に、あの少女に何かがあれば、組織は消える、と。
その瞬間、リ・デストロの膝から、力が抜けた。
どさり、と、彼は床に崩れ落ちた。大柄な身体が、子供のように、へたり込む。
「……はは」乾いた笑いが漏れる。「生き残った……我々は。11万の同志は。——生き残ったのだ」
ぼたぼた、と、汗が床に滴る。報告を待つ、この数刻。彼は、生きた心地がしなかった。あの子供の気分一つで、明日、組織が地図から消えていたかもしれない。——その重圧が、今、一気に彼を襲った。
「……凄まじい、ストレスだ」彼は、震える手で額を拭った。
「あの子供は、指一本、動かさず。我々をこのざまだ」
だが、リ・デストロは、ただの臆病者ではなかった。彼は、床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。落ち窪んだ目に、新たな光が宿る。
「——二度とあってはならん」
彼の声は、もう震えていなかった。
「次はない。なら、次を起こさぬ組織を、作るだけだ。——いいか。緊急、指令だ」
その日から、異能解放軍は、生まれ変わるための痛みを引き受けた。
末端の構成員、一人一人まで、徹底した統制が敷かれる。独断専行は、最大の禁忌とされた。少しでも、僭帝に。少しでも、あの少女に関心を向けた者は、即座に隔離。
「あの王には、決して触れるな」
それが、組織の第一戒律となった。
数万の大軍を、リ・デストロは、一人で締め直す。眠らず、休まず。——たった一人の少女の安全を、保証するためだけに。
皮肉な話だった。
世界を変えようと掲げた、大義の軍勢が。今や、その総力を挙げて——たった一人の子供に「手を出さない」ことに、注いでいる。
何も望まぬ王は、指一本、動かさなかった。ただ、一度「許す」と言った。それだけで——世界最大の軍勢が、その在り方そのものを、作り変えた。
リ・デストロは、悟っていた。あの子供を御することは、誰にもできない。できるのは、ただ——決して怒らせないこと。それだけ。
大義の男は今、自らの帝国を、たった一行の戒律の上に建て直していた。「あの少女に、手を出すな」という、その一行の上に。
だが——鎖は、締めるほど、軋むものだった。
統制が厳しくなるほど、構成員たちの胸の中に、澱が溜まっていく。
「……なあ、おかしくないか」ある古参が、仲間内で声を潜めた。
「俺たちは、縛られないために、ここに集まった。社会の、法の、常識の。あらゆる鎖を憎んで、自由を求めて、剣を執った。——なのに、今や。たった一人の子供への恐怖という、これ以上ない重い鎖に、自ら繋がれている」
周囲の数人が、重く頷いた。
解放を謳う軍勢が、誰よりも深く、一人の王に屈している。——その矛盾が、じわじわと、組織を内側から蝕み始めていた。
リ・デストロは、その不穏な空気を、敏感に察していた。
彼は、知っていた。締めつければ締めつけるほど、反発は育つ。けれど、緩めれば、また、あの愚か者のような暴走分子が現れて——今度こそ、組織は消し飛ぶ。
締めれば、内から崩れ。緩めれば、外から滅ぶ。
「……分かっていない」リ・デストロは、額に手を当てた。
「あの王の恐ろしさを、本当に理解しているのは、この組織で、私一人だけだ」
彼の掌の中で、最大の軍勢は今、静かに軋み始めていた。
だが——彼は、まだ知らなかった。この軋みを、いつか、思いもよらぬ形で解く日が来ることを。そして、その日が来るのは、これから訪れる、途方もない災厄のあとだということを。
その頃。
東の、さらに奥。ヒーローにも、二つの巨人にも、誰の視界にも入らぬ、暗い施設で。
冷たい水音が、響いていた。
巨大な培養槽。その濁った液の中に、一つの人影が沈んでいる。無数の管に繋がれ、静かに、けれど確実に、人であることをやめていく身体。
白衣の男が、計器を覗き込み、満足げに頷いた。
「……そろそろ、だな」
その言葉に応えるように。
槽の中の人影の、閉じていた瞼が——ぴくり、と、動いた。
濁った液の向こうで、二つの光が灯る。
赤い、赤い——底なしの憎悪を湛えた、目だった。
二つの巨人が、剃刀の刃の上で睨み合い、その均衡を、必死に守ろうとしている。その足元で。
誰も数えていなかった、三つ目の駒が。
今——目を、覚ました。