空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

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第6話「裏切り」

 

第六話「裏切り」

 

欲しいものは、何もないと言った少年に。

それでも、突きつけられる問いがあった。

——お前も、いつか裏切るのだろう。

それは、少女が7年抱え続けた、ただ一つの確信だった。

 

 リブラが消えた夜から、また季節がいくつか巡った。

 

 あれ以来、ミカはシュンカを突き放そうとしなくなった。何度試みても、あの少年は「別にいいよ」と動かないし、そもそも——彼女自身が、突き放したくなくなっていた。

 

 日々は淡々と過ぎた。朝、同じ部屋で目を覚ます。噛み合わない会話を交わす。同じ部屋で眠る。彼女の棘は、他人にはあいかわらず鋭かったけれど、シュンカに向ける分だけは、いつの間にかすっかり丸くなっていた。

 

 穏やかな日々だった。だからこそ、彼女は油断していた。

 

 ある日、二人は施設の外へ出ていた。切れたノートと、小さくなったシュンカの靴を買うための、ささやかな外出。職員に見つからないうちに、と。冬の澄んだ空気の中、賑わう商店街を、二人は並んで歩いていた。

 

 ——けれど、街には人がいた。たくさんの人が。

 

 ミカは、忘れかけていた。シュンカの隣で凪いでいるあいだ、すっかり忘れていた。自分がどういう存在か。一人になると、寂しさが化け物になって零れ落ちること。人混みに踏み込めば、その引き金が、いとも簡単に引かれてしまうこと。

 

 雑踏のざわめき、見知らぬ顔の群れ。誰も自分を知らない、誰も自分を見ていない——その感覚が、ふいに胸の底の古い穴を押し広げた。賑わいの中にいるのに、いや、賑わいの中にいるからこそ、彼女は猛烈に心細くなった。

 

「……っ」

 

 胸を、黒いものがせり上がってくる。

 

「ミカ?」。シュンカが振り返る。

 

「やだ。——出てきちゃう。シュンカ、離れて。私——」

 

 遅かった。

 

 彼女の足元の影が膨れ上がり、巨大な何かが立ち上がった。

 

 半人半馬。巨大な剣を携えた騎士。身にまとう聖なる光。そして——失われた、左の腕。

 

 悲鳴が上がり、人々が逃げ惑った。賑わっていた街が、一瞬で恐慌に変わる。

 

 けれど、騎士は逃げる人々には目もくれなかった。その巌のような双眸が、まっすぐにシュンカを捉えた。そして、低く問うた。幾度も裏切られてきた者の、重く掠れた声で。

 

「……お前も。——裏切るのだろう」

 

 シュンカは、平坦に騎士を見上げる。

 

 フルゴールは続けた。その声には、怒りよりも、深い諦めがにじんでいた。

 

「我は知っている。信じたものは、必ず背く。仕えた神々さえ、我を見捨てた。——この娘も、そうやって何度も裏切られてきた。捨てられ、嗤われ、化け物と呼ばれてきた。お前も同じだ。今は隣にいても、いつか必ず、この娘を捨てる。人とは、そういうものだ。——違うか、少年」

 

 それは、リブラとは違う問いだった。

 

 リブラは、少年の“欲”を探って空振りした。だがフルゴールは、欲を突いてこなかった。彼が突きつけたのは——ミカの最も深い恐怖だった。やっと誰かを信じかけた。やっと寂しさが癒えかけた。だからこそ怖い。この温もりも、いつか奪われる。この少年も、いつか背を向ける。

 

 蹲ったミカの瞳が、揺れていた。

 

 フルゴールの声は、彼女自身の声だった。“どうせシュンカも私を裏切る”。心の一番柔らかい場所に巣食う、その確信。十年かけて凍りついた、ただ一つの真実。親に捨てられ、誰にも望まれず、近づいた者は皆いなくなった。だから彼女は知っている。人は、必ず去る。例外はない。

 

 その確信が今、騎士の姿を借りて、少年に剣を突きつけていた。

 

 聖なる光が、フルゴールの剣に宿る。答え次第では、その一閃が、少年を木っ端微塵にするだろう。

 

「……シュンカも」。ミカは、蹲ったまま、掠れた声を漏らした。「シュンカも、私を捨てるんだ。みんなそうだった。親も、誰も、みんないなくなった。——だから、お前もいつか、私を捨てる。フルゴールの言う通りだ。どうせ私は、また一人になる。やっと寂しくなくなったのに。——また、一人に」

 

 それは、彼女の十年分の絶望だった。信じかけて、それが怖い。失うのが怖い。だから先に絶望しておく。裏切られる前に。

 

 シュンカは、逃げ惑う群衆の中で、ただ一人、巨大な騎士を見上げていた。

 

 そして、静かに答えた。

 

「捨てないよ」

 

 騎士の動きが、止まる。

 

「……なぜ、言い切れる。人は皆——」

 

「わからない」

 

 シュンカは平坦に遮った。けれどそのあと、彼は生まれて初めて、自分の内側を手探りするように、言葉を継いだ。

 

「僕、今まで何にも、“したい”とか“欲しい”とか思ったことがなかったんだ。生きるだけで手一杯で、空っぽで、何もなかった。——でも」

 

 彼は、蹲るミカを見た。

 

「ミカと一緒にいると、——なんだか、心地良いんだ。生まれて初めて、“何もない”以外のものを感じる。だから、——捨てる理由がない。むしろ、手放したくない。こんなふうに思ったのは、僕、生まれて初めてだから」

 

 淡々とした声だった。気負いも、熱もない。ただ、空っぽの器の底でたった一つ生まれた“何か”を、彼はたどたどしく差し出していた。

 

 ミカは、涙に濡れた眼で、彼を見上げた。

 

 いつもの癖で、彼女は身構えた。嘘を探そうとした。裏を探そうとした。“でも本当は”を探そうとした。十年そうしてきたように、相手の言葉の奥にある「いつか去る理由」を、見つけ出そうとした。

 

 ——けれど、見つからなかった。

 

 シュンカの言葉と、シュンカの態度は、これまでずっと、寸分も食い違ったことがなかった。「別にいいよ」と言って、本当にどこへも行かなかった。「怖くない」と言って、本当に一度も逃げなかった。怪物が出ても、欲を突かれても、彼はそこにいた。積み重ねてきた日々の一つ一つが、彼の「捨てない」を裏打ちしていた。

 

 彼女が証拠にすがれるものは、覗いて見た心ではなかった。もっと確かな——彼が今日まで、一度も裏切らなかったという、ただの事実だった。

 

 フルゴールの剣から、聖なる光が揺らぎ、消えていく。

 

「……そうか」。騎士は、低く呟いた。裏切られ続けた傷が、生まれて初めて“裏切らないもの”に触れて、振り上げた腕を下ろす。「ならば、——我の出る幕は、ない」

 

 半人半馬の巨躯が、霧となって、ミカの中へ還っていった。逃げ惑っていた街の喧騒が、遠ざかる。

 

 ミカの中で、何かが決定的に崩れ、そして芽吹いた。

 

 “どうせ裏切られる”が崩れた。代わりに、“この子だけは違う”が芽吹いた。覗いて確かめたのではない。日々が、行動が、積み重ねが、保証していた。シュンカの「捨てない」は、本当だ。「手放したくない」は、本当だ。——生まれて初めて、彼女は誰かを、心から信じられた。

 

 空っぽだった少年に、初めて“手放したくない”が生まれ。

 

 人を信じられなかった少女に、初めて“信じられる誰か”が生まれた。

 

 冬の空の下、二つの傷が、同時に——救いの芽を、出していた。




前話の後書きでも記載しましたが
エルデンリングナイトレインの夜の王 フルゴールをお借りしました
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