三つ巴編 第12話「秤」
男は、二つの未来を秤にかけた。
——何も望まぬ王が、勝つ未来。
すべてを奪う男が、勝つ未来。
そして、後者を想像した瞬間、血の気が引いた。
死柄木弔、覚醒。改造。AFOを超える怪物。
近く、僭帝と激突する——その報せは、愛知の異能解放軍にも届いていた。
リ・デストロは、執務室で、報告書を睨みながら、焦っていた。
まずい。二つの巨人が、ぶつかる。
北の連合と、東の僭帝。AFOを超えたとも噂される怪物と、世界の英雄すら退けた王朝。その激突は、もはや「戦争」という言葉ですら、生ぬるい。災害だ。
そして、彼は理解していた。三つ巴の盤上で、
二つが本気でぶつかれば——残る一つが、無傷で済む道理はない。
「……火種は、間違いなく、こっちまで来る」
彼は、低く呻いた。死柄木の崩壊は、触れた地面すら塵に変える。僭帝の化け物どもの力も、底が知れない。その余波が、我が版図に及ばぬ保証は、どこにもない。
リ・デストロは、机に両肘をつき、指を組んで、思考の海に沈んだ。
近く起こる、僭帝と連合の激突。
その結末を彼は冷静に二つに分けて想像した。
もし、僭帝が勝ったなら。
——おそらく、我々に何も起こらない。
彼は、あの王の本質を思い出した。
何も望まない。版図にも、支配にも、興味がない。ミカという、たった一人さえ無事なら、それで満足する子供。僭帝は、連合を退けた後、またあの静かな城へと帰っていくだろう。我々を、取り込もうとも、滅ぼそうともしない。こちらがあの少女に手を出さない限り。
……生き残れる。むしろ、最も平穏な結末だ。
だが。
もし——死柄木が、勝ったら?
その想像に足を踏み入れた瞬間、リ・デストロの顔から、血の気が引いた。
死柄木弔。あの男の本質は、僭帝とは正反対だ。破壊。支配。奪うこと。それ自体が目的の男。何も望まぬ王とは、違う。あいつは、すべてを望む。
僭帝を倒した死柄木が、次に手を伸ばす先は——考えるまでもない。
我々だ。
異能解放軍も、破壊し、支配し、塵に変える。
いや、我々だけではない。この世界、そのものを、あの男は、恐怖と崩壊で塗り潰す。——僭帝という、最大の歯止めが消えた世界で。
「……冗談じゃない」
リ・デストロは、掠れた声で呟いた。額に冷たい汗が滲む。
彼は今、痛烈に悟った。
……我々は、恐れる相手を、間違えていた。
僭帝は、最強でありながら、何も望まぬがゆえに、世界にとって最も無害な番人だった。
本当の脅威は——あの、すべてを欲しがる北の怪物の方だったのだ。
ずっと、僭帝の逆鱗に怯えてきた。けれど、僭帝が倒れることこそが——我々にとって、世界にとって、最悪の悪夢なのだ。
リ・デストロは、震える手で額を拭った。
そして、生まれて初めて——奇妙な願いが、胸に芽生えた。
頼む。——勝ってくれ。あの何も望まぬ王よ。
革命を掲げた男が今、たった一人の子供に、世界の命運を託そうとしていた。
だが、その願いは、彼の中で、すぐに、次の問いへと変わった。
……ただ、祈るだけで、いいのか。
リ・デストロは立ち上がり執務室を歩き回った。
僭帝の勝利をただ待つ。息を潜めて、嵐が過ぎるのを願う。
——それは、あまりに受け身だ。確実でもない。もし、万が一僭帝が競り負けたら? その時、
我々は、何の備えもないまま死柄木の餌食になる。
ならば。
彼の脳裏に、一つの、大胆な考えが閃いた。
いっそ——僭帝と手を組んで、共にあの怪物を叩くべきではないか?
その発想は、最初彼自身を驚かせた。
けれど、考えれば考えるほど、それは理に適っていた。
第一に。僭帝の勝利が、我々の生存に直結するなら。ただ祈るより、自ら、その勝利を後押しする方が、遥かに確実だ。死柄木という怪物を倒すのに、我が十一万の軍勢が加われば、僭帝の勝率は、間違いなく上がる。
そして第二に。——これが大きい。
あの襲撃。我が軍の馬鹿どもが、ミカを狙った、あの一件。それによって生まれた、僭帝との間の、深いわだかまり。「一度だけ」と許された、あの薄氷の関係。——もし、我々が、共に血を流して、死柄木と戦えば。
その蟠りは、溶ける。「異能解放軍は、敵ではない」。それを、言葉ではなく、行動で証明できる。
「……一石二鳥、か」。リ・デストロは、低く呟いた。
生き残りと、和解。その二つを、同時に掴める。——これ以上の手は、ないかもしれない。
もっとも、問題もあった。
あの王が、我々の助けを、受け入れるか。シュンカは、何も望まぬ子供。「お前らの手など要らない」と、一蹴される可能性は、低くない。むしろ、先の襲撃を根に持っていれば、協力の申し出、自体を、疑われるかもしれない。
そして——我が軍だ。誇り高き十一万が、「僭帝のために戦え」と言われて、素直に従うか。
……いや。だが、相手が死柄木なら、話は違うかもしれない。あれは、我々をも滅ぼす、共通の敵だ。「あの王に媚びる」のではなく、「我々自身のために、怪物を討つ」。——そう説けば、誇りを傷つけず、戦意を引き出せる。
リ・デストロの胸の中で、天秤が、傾いていく。
受け身で、怯えるだけの日々から。——自らの手で、運命を掴みにいく道へと。
「……賭ける価値は、ある」。彼は、立ち上がった。落ち窪んだ目に、久しく失っていた覇気が戻る。「僭帝に、協力を打診する。——我が軍の、誇りと存続。その両方を、賭けて」
恐れていた王の隣に立つ。それは、屈服ではなく——共に怪物を討つための、同盟だった。
大義の男は今、最も意外な一手を、指そうとしていた。
——問題は、ただ一つ。何も望まぬ、あの王が。差し出された手を、取るのか。それとも、「いらない」の一言で、払いのけるのか。
それは誰にも——リ・デストロにすら読めなかった。