空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

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第63話「商人」

三つ巴編 第16話「商談」

 

怪物の前に、黒衣の商人が立つ。

 

——一つ、お取引をいたしましょう。

 

崩壊が奔る。だが、届かない。

 

商人と客は、互いに傷つけられぬ。それが、公平。

 

 

 

 脳無の群れを異能解放軍が食い止める。その喧騒の中、死柄木はただ一点だけを見ていた。

 

 空に浮かぶ、白い蛾。その背の少女。

 

 あの女さえ消せば、あいつは——シュンカはただのガキに戻る。

 

 死柄木はシュンカを無視し、ミカへと向かおうとした。その行く手に。

 

 ふらりと、一つの影が立った。

 

 黒い外套をまとった商人。山羊の頭を持つ奇妙な男。夜の魔リブラ。

 

 商人は恭しく頭を垂れ、穏やかに語りかけた。

 

 「——これは、これは。お客様。ようこそ。一つ、お取引をいたしましょう。なに、悪い話ではございません。あなたの欲しいものを、差し上げましょう」

 

 死柄木は足を止め、鬱陶しそうにその山羊頭を見下ろした。

 

 「……は?」

 

 取引だと。この俺に。何を寝言を。——苛立ちが一瞬で沸点を超える。

 

 彼は無造作に手を伸ばした。崩壊。触れずとも世界を腐らせる、進化した絶対の力。それが商人へと奔る。

 

 あらゆるものを塵に変える一撃。——それが商人の体を、確かに捉えた。

 

 筈だった。

 

 だが——商人は塵にもならず、崩れもせず、涼しい顔でそこに立っていた。

 

 「おやおや。お客様。いけませんねえ」商人はやんわりと指を振った。

「お忘れですか。これは——『お取引』ですよ」

 

 彼は両手を広げ、朗々と告げた。

 

 「商談の席で、商人が客に手を出すなど、あってはならない。——そして、客が商人に手を出すことも、また、あってはならない。お互いに攻撃は通らない。それが礼儀。それが——『公平』というものでしょう?」

 

 死柄木の動きが止まった。

 

 効いていない。崩壊が、効いていない。

 

 AFOを超えた、進化した絶対の崩壊。触れたものは例外なく腐り崩れる。——その理が今、目の前で、何の理屈もなく捻じ曲げられていた。

 

 「……何だ、お前」初めて、死柄木の声に困惑が混じる。

「俺の崩壊が——通らない、だと?」

 

 「ええ。通りません」商人はにこやかに頷いた。

「ですが、ご安心を。私も、あなたを傷つけられません。完全に対等。完全に公平。——さあ、落ち着いて。お取引と参りましょう」

 

 

 「……ふざけんな」死柄木はなおも力を叩きつけようとした。

 

 だが、何をしても通らない。膂力も、衝撃波も、崩壊も。すべてが「公平」の名の下に掻き消える。

 

 やがて彼は悟った。この山羊には力が通じない。ならば——聞くだけ、聞いてやる。

 

 「……取引だと。何を寄越すって言うんだ」

 

 商人の、山羊の口元が、にたりと歪んだ。

 

 「ええ、ええ。話が早くて助かります」。彼は指を一本立てた

「お客様。——全盛期の、オールマイト。あのシンボルの肉体を、さらに超える力を。手に入れたくはありませんか?」

 

 その言葉が。

 

 死柄木の、胸の奥の、最も古い場所を——ぐらりと揺らした。

 

 

 

 ——オールマイト。

 

 その名を聞いた瞬間、死柄木の脳裏に、忘れかけていた光景が蘇った。

 

 まだ志村転弧だった頃。小さな手に握りしめていた、一体のフィギュア。テレビの中で、笑いながら人々を救う、金色のヒーロー。

 

 「もう大丈夫」

 

 あの力強い言葉。あの揺るがない笑顔。——幼い転弧は、あれに憧れていた。誰よりも。ヒーローになりたかった。人を助けたかった。あの金色の背中に、追いつきたかった。

 

 だが。

 

 その憧れは、許されなかった。ヒーローの話をするたび、父の顔が歪んだ。

振るわれる拳。「ヒーローなんて」という吐き捨てるような声。憧れを口にすることすら、罪だった。

 

 そして——あの日。個性が暴走した。気づけば、手の中に、家族の温もりはなくなっていた。憧れは血に塗れ、憎しみへと裏返った。

 

 助けは来なかった。あれほど憧れた、あの金色のヒーローは——泣きじゃくる転弧の前に、ついに現れなかった。

 

 だから憎んだ。オールマイトを。ヒーローを。あれが象徴する、この世界のすべてを。

 

 ……なのに。

 

 その、憎んだはずの名が。今、胸の奥で疼いていた。

 

 超える。あのオールマイトを。かつて憧れて、そして憎んだ、あの存在を。

 

——その上に、立つ。

 

 もし、それが叶うなら。あの白いガキにも——届くかもしれない。

 

 捻じ曲げられた憧れが、憎しみの底で、静かに燃え上がった。

 

 

 「……くれ」

 

 死柄木の口から、掠れた声が漏れた。

 

 「オールマイトを超える力。——寄越せ。それさえあれば、俺はあいつを」

 

 商人の、山羊の目が、細く光った。

 

 「——かしこまりました」

 

 その声は蜜のように甘く、そして底知れず冷たかった。

 

 「では、契約と参りましょう。お客様のお望みのままに。——全盛期のオールマイトを超える肉体を、確かにお渡しいたします」

 

 死柄木は、気づかなかった。

 

 この取引が、受けた瞬間に受けた者を破滅させるインチキであることを。

甘い果実の中身が、すべて毒であることを。——そして、その毒が、最もよく効く相手にこそ差し出されていることを。

 

 求める者。欲しがる者。満たされぬ者。——その心の隙間こそが、リブラの最大の獲物だった。

 

 もし、ここに立つのがシュンカであれば。商人は、何も差し出せなかっただろう。何も望まぬ王には、引っかかる鉤がない。

 

 だが、死柄木は望んでしまった。望まずにはいられなかった。

 

 それが——彼とあの男の、決定的な違いだった。

 

 「——取引、成立です」

 

 商人の声が、荒野に静かに響いた。

 

 死柄木の全身が、光に包まれていく。

 

 彼はまだ、知らない。この一瞬の「欲」が、自分から何を奪い去るのかを。

 

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