三つ巴編 第16話「商談」
怪物の前に、黒衣の商人が立つ。
——一つ、お取引をいたしましょう。
崩壊が奔る。だが、届かない。
商人と客は、互いに傷つけられぬ。それが、公平。
脳無の群れを異能解放軍が食い止める。その喧騒の中、死柄木はただ一点だけを見ていた。
空に浮かぶ、白い蛾。その背の少女。
あの女さえ消せば、あいつは——シュンカはただのガキに戻る。
死柄木はシュンカを無視し、ミカへと向かおうとした。その行く手に。
ふらりと、一つの影が立った。
黒い外套をまとった商人。山羊の頭を持つ奇妙な男。夜の魔リブラ。
商人は恭しく頭を垂れ、穏やかに語りかけた。
「——これは、これは。お客様。ようこそ。一つ、お取引をいたしましょう。なに、悪い話ではございません。あなたの欲しいものを、差し上げましょう」
死柄木は足を止め、鬱陶しそうにその山羊頭を見下ろした。
「……は?」
取引だと。この俺に。何を寝言を。——苛立ちが一瞬で沸点を超える。
彼は無造作に手を伸ばした。崩壊。触れずとも世界を腐らせる、進化した絶対の力。それが商人へと奔る。
あらゆるものを塵に変える一撃。——それが商人の体を、確かに捉えた。
筈だった。
だが——商人は塵にもならず、崩れもせず、涼しい顔でそこに立っていた。
「おやおや。お客様。いけませんねえ」商人はやんわりと指を振った。
「お忘れですか。これは——『お取引』ですよ」
彼は両手を広げ、朗々と告げた。
「商談の席で、商人が客に手を出すなど、あってはならない。——そして、客が商人に手を出すことも、また、あってはならない。お互いに攻撃は通らない。それが礼儀。それが——『公平』というものでしょう?」
死柄木の動きが止まった。
効いていない。崩壊が、効いていない。
AFOを超えた、進化した絶対の崩壊。触れたものは例外なく腐り崩れる。——その理が今、目の前で、何の理屈もなく捻じ曲げられていた。
「……何だ、お前」初めて、死柄木の声に困惑が混じる。
「俺の崩壊が——通らない、だと?」
「ええ。通りません」商人はにこやかに頷いた。
「ですが、ご安心を。私も、あなたを傷つけられません。完全に対等。完全に公平。——さあ、落ち着いて。お取引と参りましょう」
「……ふざけんな」死柄木はなおも力を叩きつけようとした。
だが、何をしても通らない。膂力も、衝撃波も、崩壊も。すべてが「公平」の名の下に掻き消える。
やがて彼は悟った。この山羊には力が通じない。ならば——聞くだけ、聞いてやる。
「……取引だと。何を寄越すって言うんだ」
商人の、山羊の口元が、にたりと歪んだ。
「ええ、ええ。話が早くて助かります」。彼は指を一本立てた
「お客様。——全盛期の、オールマイト。あのシンボルの肉体を、さらに超える力を。手に入れたくはありませんか?」
その言葉が。
死柄木の、胸の奥の、最も古い場所を——ぐらりと揺らした。
——オールマイト。
その名を聞いた瞬間、死柄木の脳裏に、忘れかけていた光景が蘇った。
まだ志村転弧だった頃。小さな手に握りしめていた、一体のフィギュア。テレビの中で、笑いながら人々を救う、金色のヒーロー。
「もう大丈夫」
あの力強い言葉。あの揺るがない笑顔。——幼い転弧は、あれに憧れていた。誰よりも。ヒーローになりたかった。人を助けたかった。あの金色の背中に、追いつきたかった。
だが。
その憧れは、許されなかった。ヒーローの話をするたび、父の顔が歪んだ。
振るわれる拳。「ヒーローなんて」という吐き捨てるような声。憧れを口にすることすら、罪だった。
そして——あの日。個性が暴走した。気づけば、手の中に、家族の温もりはなくなっていた。憧れは血に塗れ、憎しみへと裏返った。
助けは来なかった。あれほど憧れた、あの金色のヒーローは——泣きじゃくる転弧の前に、ついに現れなかった。
だから憎んだ。オールマイトを。ヒーローを。あれが象徴する、この世界のすべてを。
……なのに。
その、憎んだはずの名が。今、胸の奥で疼いていた。
超える。あのオールマイトを。かつて憧れて、そして憎んだ、あの存在を。
——その上に、立つ。
もし、それが叶うなら。あの白いガキにも——届くかもしれない。
捻じ曲げられた憧れが、憎しみの底で、静かに燃え上がった。
「……くれ」
死柄木の口から、掠れた声が漏れた。
「オールマイトを超える力。——寄越せ。それさえあれば、俺はあいつを」
商人の、山羊の目が、細く光った。
「——かしこまりました」
その声は蜜のように甘く、そして底知れず冷たかった。
「では、契約と参りましょう。お客様のお望みのままに。——全盛期のオールマイトを超える肉体を、確かにお渡しいたします」
死柄木は、気づかなかった。
この取引が、受けた瞬間に受けた者を破滅させるインチキであることを。
甘い果実の中身が、すべて毒であることを。——そして、その毒が、最もよく効く相手にこそ差し出されていることを。
求める者。欲しがる者。満たされぬ者。——その心の隙間こそが、リブラの最大の獲物だった。
もし、ここに立つのがシュンカであれば。商人は、何も差し出せなかっただろう。何も望まぬ王には、引っかかる鉤がない。
だが、死柄木は望んでしまった。望まずにはいられなかった。
それが——彼とあの男の、決定的な違いだった。
「——取引、成立です」
商人の声が、荒野に静かに響いた。
死柄木の全身が、光に包まれていく。
彼はまだ、知らない。この一瞬の「欲」が、自分から何を奪い去るのかを。