三つ巴編 第19話「残り滓」
返せ、と、男は叫んだ。
——だが、悪魔は微笑む。
取引は公平に成立した。取り消しなどできはしない。
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拳が交わる。傷が刻まれる。そして、また治される。
そのたびに死柄木の中で力が砕けていく。
超再生が、消えた。電波が、消えた。反射が、消えた。——一つ、また一つ。彼を怪物たらしめていた個性が、治療という名の収奪で、根こそぎ、毟られていく。
「や、めろ……」死柄木の声が、掠れる。「触る、な……治す、な……!」
黄金の悪魔の掌が、また彼の傷に翳される。淡い光。傷が塞がる。そして——体の奥で、また砕ける音。
「やめろって、言ってんだろうがァ!!」。死柄木は絶叫した。「俺の力を——返せ! 全部返せ!! それは、俺のものだ! 俺が、あれだけの苦痛に耐えて、手に入れた——俺の力だ!!」
リブラは、その慟哭を静かに見下ろした。そしてどこまでも穏やかに告げた。
「——お客様。それはできかねますねぇ」
悪魔の声には、一片の悪意もなかった。ただ事実を述べるだけ。
「お取引は、公平に成立いたしました。あなたは、望んだ肉体を得て。私は、対価を頂いた。双方合意の上での、正当な契約です。——一度成立した取引を、取り消すことなど。できはしません」
それが、この悪魔の唯一にして絶対の理だった。
その時。
決闘の檻の、外に。
白い影が立った。
蠍の背から降り静かにこちらを見ている赤い目の少年。
シュンカ。
その姿を認めた瞬間リブラの動きがぴたりと止まった。黄金の光が、すうっと引いていく。悪魔は、掲げていた天秤を静かに下ろした。
そして——恭しく頭を垂れた。
「——時は満ちました」
その声は荘厳ですらあった。
「The time is ripe。——私の役目は、ここまで。あとは我が主の隣に在る御方に、お任せいたしましょう」
リブラの巨躯が、夜の闇に溶けるように崩れていく。獲物を熟れさせ、機は満ちた。悪魔の仕事は済んだ。——あとは、本物の王が幕を引く。
黄金の悪魔は満足げにその姿を消し——空のミカのもとへと還っていった。
決闘の檻が解ける。
死柄木はその場に膝をついていた。
悪魔が消えた。あの終わりのない収奪が止まった。——一瞬、安堵が彼の全身を包んだ。助かった。あの茶番から解放された。
だが。
顔を上げ己の手を見た瞬間。その安堵は底なしの絶望へと変わった。
力が——ない。
超再生。電波。反射。そして——崩壊。
彼の代名詞だった、あの絶対の権能すら。もう、感じられない。体の奥を、いくら探っても、そこにあったはずの力は、ほとんど残っていなかった。
「……嘘だ」掠れた声が漏れる。「嘘だ。嘘だろ……」
九割。いや——あの、終わりのない治療でさらに削られた。今や失われた個性は、九割八分。
残ったのは——二分。数え切れぬほど抱えていた力の、ほんの残り滓。
あれほど。あれほどの苦痛に耐えた。人であることを、やめた。培養槽の中で、悲鳴すら上げられぬまま、骨を、神経を、作り変えられた。すべては——あの白い男を、超えるため。
なのにその手に入れた力は。戦う前に山羊一匹の茶番で、根こそぎ毟り取られた。
「……なんで、だ」死柄木の体が、震える。
「なんで……なんで、こんな……! 俺は、まだ、何も——あいつと、戦っても、いない! なのに——なのに、もう、こんな……!」
拳を握る。だがそこに、かつての万能感はない。あるのは——ただの、借り物の肉体だけ。怪物ではない。ただ丈夫なだけの人間。
死柄木は、慟哭した。
欲した。だから奪われた。求めた。だから失った。——それが、彼という男の、生涯を貫く、たった一つの法則だった。
その、膝をついた死柄木の前に。
白い王が、静かに、歩み寄る。
脇目も振らず。憎しみもなく。ただ淡々と。
シュンカは、崩れ落ちた怪物だったものを、赤い目で静かに見下ろした。
残り滓となった男と、満ち足りた王が。ついに向かい合う。
そして——決着の刻が静かに近づいていた。