空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

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第66話「残り滓」

三つ巴編 第19話「残り滓」

 

返せ、と、男は叫んだ。

 

——だが、悪魔は微笑む。

 

取引は、公平に成立した。取り消しなど、できはしない。

 

---

 

 拳が交わる。傷が刻まれる。そして、また、治される。

 

 そのたびに、死柄木の中で、力が砕けていく。

 

 超再生が、消えた。電波が、消えた。反射が、消えた。——一つ、また一つ。彼を怪物たらしめていた個性が、治療という名の収奪で、根こそぎ、毟られていく。

 

 「や、めろ……」死柄木の声が、掠れる。「触る、な……治す、な……!」

 

 黄金の悪魔の掌が、また、彼の傷に翳される。淡い光。傷が塞がる。そして——体の奥で、また、砕ける音。

 

 「やめろって、言ってんだろうがァ!!」。死柄木は、絶叫した。「俺の力を——返せ! 全部、返せ!! それは、俺のものだ! 俺が、あれだけの苦痛に耐えて、手に入れた——俺の、力だ!!」

 

 リブラは、その慟哭を、静かに見下ろした。そして、どこまでも穏やかに、告げた。

 

 「——お客様。それはできかねますねぇ」

 

 悪魔の声には、一片の悪意もなかった。ただ、事実を述べるだけ。

 

 「お取引は、公平に、成立いたしました。あなたは、望んだ肉体を得て。私は、対価を頂いた。双方、合意の上での、正当な契約です。——一度成立した取引を、取り消すことなど。できはしません」

 

 それが、この悪魔の、唯一にして絶対の理だった。

 

 

 その時。

 

 決闘の檻の、外に。

 

 白い影が、立った。

 

 蠍の背から降り、静かに、こちらを見ている、赤い目の少年。

 

 シュンカ。

 

 その姿を認めた瞬間、リブラの動きが、ぴたりと止まった。黄金の光が、すうっと引いていく。悪魔は、掲げていた天秤を、静かに下ろした。

 

 そして——恭しく、頭を垂れた。

 

 「——時は、満ちました」

 

 その声は、荘厳ですらあった。

 

 「The time is ripe。——私の役目は、ここまで。あとは、我が主の、隣に在る御方に、お任せいたしましょう」

 

 リブラの巨躯が、夜の闇に溶けるように崩れていく。獲物を熟れさせ、機は満ちた。悪魔の仕事は済んだ。——あとは、本物の王が幕を引く。

 

 黄金の悪魔は、満足げに、その姿を消し——空の、ミカのもとへと、還っていった。

 

 決闘の檻が、解ける。

 

 

 死柄木は、その場に、膝をついていた。

 

 悪魔が、消えた。あの、終わりのない収奪が、止まった。——一瞬、安堵が、彼の全身を包んだ。助かった。あの茶番から、解放された。

 

 だが。

 

 顔を上げ、己の手を見た瞬間。その安堵は、底なしの絶望へと、変わった。

 

 力が——ない。

 

 超再生。電波。反射。そして——崩壊。

 

 彼の代名詞だった、あの絶対の権能すら。もう、感じられない。体の奥を、いくら探っても、そこにあったはずの力は、ほとんど、残っていなかった。

 

 「……嘘だ」掠れた声が漏れる。「嘘だ。嘘だろ……」

 

 九割。いや——あの、終わりのない治療で、さらに削られた。今や、失われた個性は、九割八分。

 

 残ったのは——二分。数え切れぬほど抱えていた力の、ほんの、残り滓。

 

 あれほど。あれほどの苦痛に耐えた。人であることを、やめた。培養槽の中で、悲鳴すら上げられぬまま、骨を、神経を、作り変えられた。すべては——あの白い男を、超えるため。

 

 なのに。その、手に入れた力は。戦う前に、山羊一匹の茶番で、根こそぎ、毟り取られた。

 

 「……なんで、だ」死柄木の体が、震える。

「なんで……なんで、こんな……! 俺は、まだ、何も——あいつと、戦っても、いない! なのに——なのに、もう、こんな……!」

 

 拳を握る。だが、そこに、かつての万能感は、ない。あるのは——ただの、借り物の肉体だけ。怪物ではない。ただ、丈夫なだけの、人間。

 

 死柄木は、慟哭した。

 

 欲した。だから、奪われた。求めた。だから、失った。——それが、彼という男の、生涯を貫く、たった一つの法則だった。

 

 

 その、膝をついた死柄木の前に。

 

 白い王が、静かに、歩み寄る。

 

 脇目も振らず。憎しみもなく。ただ、淡々と。

 

 シュンカは、崩れ落ちた怪物だったものを、赤い目で、静かに見下ろした。

 

 残り滓となった男と、満ち足りた王が。ついに、向かい合う。

 

 そして——決着の刻が、静かに、近づいていた。

 

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