夜明け編 第2話「対話」
同じ言葉を、聞いたはずだった。
——「何も要らない」。
ある者は、そこに希望を見た。
ある者は、そこに底知れぬ恐怖を見た。
約束の日。ヒーローと政府の使者は、僭帝の城の門をくぐった。
敵地の只中。何をされるか、分からない。オールマイトも、ホークスも、エンデヴァーも、そして公安のトップと官僚たちも、細心の注意を払いながら、広間へと通された。
そこには、既に僭帝の陣容が待っていた。
中央の奥に、白い髪の少年——シュンカ。その隣に、ミカ。左右に、リ・デストロ、スケプティック、そして七幹部が、静かに居並ぶ。誰も、武器を構えてはいない。ただそこに在るだけで、圧倒的な王の宮廷だった。
訪問者たちは、その威に飲まれかけながら、席に着いた。
口火を切ったのは、蔦漆だった。
「よくぞ、おいでくださった」。慇懃なけれど隙のない声。
「して、ご用件を伺いましょう。政府と、ヒーローの連名での、対話の申し入れ。——何を、お話しに?」
公安のトップが、慎重に切り出した。
「単刀直入に伺おう。——貴組織は、この国に対し、何を企図しているのか。二十万という規模。もはや、無視できぬ勢力だ。我々は、貴組織が、この先どう動くつもりなのか。それを知りたい」
「動くとは?」蔦漆が首を傾げる。
「……政治への介入。領土的な要求。あるいは、国家転覆。どんな意図であれ、聞こう」。官僚が、言葉を選びながら続けた。
「要求があるなら、交渉の余地もある。我々は、無用な衝突は望まない」
それは、交渉の体裁を取った、探りだった。相手の要求を聞き出し、その欲を掴む。欲が分かれば、御する糸口が見える。——彼らの本当の目的は、そこにあった。
蔦漆は、それを見抜いていた。薄く、笑う。
「ふむ。要求、ですか。——生憎ですが」
彼が答えかけた、その時。
奥から、静かな声が割って入った。
「……別に。何も要らないよ」
シュンカだった。
それまで、興味なさげに黙っていた王が、初めて口を開いた。その声は平坦で、けれど、はっきりと、広間に響いた。
「え……?」官僚が戸惑う。
「領土とか、政治とか。そういうの、興味ない」シュンカは、淡々と続けた。
「この国を、どうこうしたいとも思わない。組織が大きくなったのも、勝手にそうなっただけ。僕が望んだわけじゃない」
彼は隣のミカをちらと見て、また視線を戻した。
「僕は、ただ、ミカと静かに暮らせれば、それでいい。だから——そっちが、こっちに手を出さないなら。僕は、何もしない。何も要求しない。——それだけだよ」
言葉に、飾りはなかった。誇張も、駆け引きも、脅しもない。ただ、事実を述べただけ。
広間が、静まり返った。
この王は、本当に、何も望んでいない。二十万を擁し、何をしても倒せぬ力を持ちながら——その力で、何かを成そうという気が、まるでない。
その言葉を聞いて。
オールマイトは、静かに、長い息を吐いた。
(……そうか。本当に、何も要らないんだな)
三つ巴の戦で、垣間見た、この王の本質。それが今、はっきりと、確信に変わった。この子は、社会を壊さない。支配もしない。ただ、隣の少女と、静かに在りたいだけ。それが、すべて。
ならば——共に、在れる。
こちらが、あの少女に、そしてこの王に、手を出さない限り。彼は、決して牙を剥かない。眠れる獅子。触れなければ、動かない。オールマイトの胸の奥に、灯がともった。この、倒せぬ王とも、道はあるのだ。力でぶつかる以外の道が。
「……分かった」八木は、静かに頷いた。
「君の言葉を、信じよう。我々も、君たちに手を出すつもりはない。——共に在る道を、探ろう」
その言葉に、嘘はなかった。ホークスも、エンデヴァーも、同じ思いで頷いた。張り詰めていた警戒が、解けていく。話が、通じた。この王とは、共存できる。
ヒーローたちは、この会談に、確かな希望を見出していた。
——だが。
同じ言葉を聞いて、正反対のものを見た者たちが、いた。
公安のトップと、官僚たち。
彼らの顔は、安堵とは程遠かった。むしろ——青ざめ、こわばっていた。
(何も、要らない……だと)
官僚の背筋を、冷たいものが這い上がる。
交渉とは、取引だ。相手が、何かを欲する。だからこそ、それを与え、あるいは、それを盾に、相手を動かせる。領土を欲するなら、割譲を餌にできる。地位を欲するなら、与えて飼い慣らせる。金を、名誉を、権力を——何であれ、欲があれば。そこに、御する糸口が生まれる。
だが。
何も要らない、相手には。差し出す餌がない。奪って脅せる弱みも、ない。あの王には、失うものがない。欲がない。ならば——動かす手段がない。
つまり、この王は。この、二十万を擁する、倒せぬ組織は。——国家の、いかなる制御をも、受け付けない。
官僚の、額に汗が滲んだ。
(放置はできぬ。御することもできぬ。倒すこともできぬ)
国家が、最も恐れるもの。それは、強大な力ではない。——制御できない、強大な力だ。欲を持つ怪物なら、まだ、手綱を握れる。だが、何も欲さぬ怪物は。何を考え、いつ気が変わるか、分からぬ怪物は。——手綱のかけようが、ない。
今は大人しい。だがこの王の、気まぐれ一つで。この二十万は、いつ牙を剥くか、分からない。そしてその時、止める術は——ない。
官僚たちの胸の中で。静かに、けれど、確かに。一つの暗い結論が、形を成し始めていた。
御せぬのなら。共に在ることが、危ういのなら。——芽のうちに、摘むしか、ない。
会談は、表向き、和やかに終わった。
シュンカは「何も要らない」と告げ、蔦漆が、そつなく席を締めくくった。ヒーローたちは、希望を胸に、城を辞した。
だが——その帰り道。
同じ車に乗りながら。ヒーローと、官僚の心は、まるで別の場所にあった。
八木の胸には、共存への希望が。官僚の胸には、制御不能への恐怖と——それを消すための算段が。
同じ、たった一言を、聞いたはずだった。「何も要らないよ」
その言葉に。ある者は救いを見て、ある者は脅威を見た。
同じ側の席に着きながら。ヒーローと国家の道は、この日、確かに分かれた。
倒せぬ王を受け入れ、共に生きようとする者と。倒せぬ王を恐れ、その芽を摘もうとする者と。
夜明けは、まだ遠い。
最も暗い夜が——今、静かに、更けていく。