夜明け編 第5話「掠める」
何気ない、夜だった。
——世界が傾く前は、いつもそうだ。
その夜も、いつもと変わらなかった。
僭帝の城。二十万を束ねる、裏の帝国。その心臓とも呼ぶべき場所。
だがその一室は、そんな仰々しさとは、無縁だった。ただ、シュンカと、ミカが、いた。それだけの部屋。
ミカは、机に向かっていた。何を書いているのか、シュンカには、分からなかった。夜の王たちのことか、明日の献立か。彼女の細い指が、紙の上を動いていた。
シュンカは、その傍にいた。何をするでもなく。ただ、彼女の書く音を、聞いていた。ペンが、紙を擦る微かな音。それが、シュンカには心地よかった。
「……シュンカ」ミカが、顔を上げずに、言った。「そんなに、見ないでよ」
「見てないよ」
「見てる」
シュンカは、少しだけ、口の端を、動かした。笑ったのかもしれない。彼にしか、分からない、微かな動き。——ミカが、いる。それだけで、彼の、空っぽの世界は、満たされていた。
ミカが、立ち上がった。
少し、根を詰めたのだろう。首を回して、窓辺へ歩いた。夜気を入れようと、したのかもしれない。掛け金に、手を伸ばした。
その、背中。
窓の遥か向こう。夜の、闇の中。——何かが光った。
シュンカには、それが、何か、分からなかった。ただ、ミカが、窓辺に立った、その一瞬。彼の胸の奥で、名づけようのない、冷たいものが、走った。
——だめだ。
なぜそう思ったのか。彼自身にも、分からない。ただ、体が動きかけた。
だが、それより、速く。
甲高い、音が鳴った。
笛の、音だった。
城のどこかで。セイレーンが、吹いたのだ。ただ一音。夜気を、切り裂く、鋭い、音。
その音が何をしたのか。シュンカには、見えなかった。ただ——遥か彼方、闇の中のあの光が。ほんの、僅かに逸れた。
次の瞬間。
窓辺で、乾いた音が、弾けた。
ミカの頬のすぐ横。窓枠に、何かがめり込んでいた。硬い鉛の塊。——弾丸。
ミカが、動きを止めた。
その頬に。一筋、赤い線が走っていた。
時が、止まった。
シュンカには何が、起きたのか、すぐには分からなかった。窓枠の弾丸。ミカの、頬の赤。——それらが、一つの意味に結びつくまで。ほんの数瞬。
その数瞬が。彼の中で、永遠のように引き伸ばされた。
ミカが撃たれた。
誰かがミカを撃った。
——ミカを。
シュンカは立ち上がっていた。いつ、そうしたのか覚えていない。気づけば、ミカの、傍にいた。少女の頬に。その、赤い線に。指を伸ばしていた。
「……ミカ」
声が掠れた。彼の声が、掠れることなどあっただろうか。
「動かないで」
シュンカはその、頬の血を指で拭った。赤が彼の指先についた。温かかった。ミカの、血だった。生きている、証。だが——流れてはならないもの。
「痛い?」
「……平気」ミカは、首を、振った。少し青ざめていた。だが、気丈に。
「掠っただけ。これくらい——」
「動かないで」シュンカは、繰り返した。
彼は、ミカの頬を見ていた。ただ、それだけを。世界から、他の、全てが消えていた。窓も、部屋も、城も、二十万の、帝国も。——ただ、ミカの頬の傷だけが、そこにあった。
その、小さな赤い線。それが、シュンカの、世界の全てを揺らしていた。
部屋に、幹部たちが、駆け込んできた。
セイレーンが、真っ先に。その顔は、蒼白だった。「王——! ご無事、ですか。ミカ様は——!」
狙撃手は、既に捕らえられていた。セイレーンが、そう告げた。屋根の上で、 伏せていた影を、取り押さえた、と。逃さなかった、と。
だが、シュンカは、聞いていなかった。
彼はまだ、ミカの頬を、見ていた。血を拭ったその指を。じっと。
幹部たちは、その背中を見て——口を、噤んだ。何も言えなかった。この王が、こんな風になるのを。誰も、見たことがなかった。無感動な、はずの王が。
何にも、動じない、はずの王が。
その、背中が。
微かに震えていた。
やがて。
シュンカは、ゆっくりと、立ち上がった。ミカの傷がただの掠り傷だと、確かめてから。手当てをセイレーンに任せてから。
そして、振り返った。
その赤い目には。もう、震えはなかった。ただ静かだった。凪いだ、水面のように。——だが、その静けさは、いつもの、無関心とは違っていた。
幹部たちは、本能的に、悟った。これは嵐の、前の静けさだと。
シュンカは口を開いた。
その声はどこまでも、静かで。そして、どこまでも冷たかった。
「——誰がやったの」