[完結]空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

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第75話「掠める」

夜明け編 第5話「掠める」

 

何気ない、夜だった。

 

——世界が傾く前は、いつもそうだ。

 

 

 その夜も、いつもと変わらなかった。

 

 僭帝の城。二十万を束ねる、裏の帝国。その心臓とも呼ぶべき場所。

だがその一室は、そんな仰々しさとは、無縁だった。ただ、シュンカと、ミカが、いた。それだけの部屋。

 

 ミカは、机に向かっていた。何を書いているのか、シュンカには、分からなかった。夜の王たちのことか、明日の献立か。彼女の細い指が、紙の上を動いていた。

 

 シュンカは、その傍にいた。何をするでもなく。ただ、彼女の書く音を、聞いていた。ペンが、紙を擦る微かな音。それが、シュンカには心地よかった。

 

 「……シュンカ」ミカが、顔を上げずに、言った。「そんなに、見ないでよ」

 

 「見てないよ」

 

 「見てる」

 

 シュンカは、少しだけ、口の端を、動かした。笑ったのかもしれない。彼にしか、分からない、微かな動き。——ミカが、いる。それだけで、彼の、空っぽの世界は、満たされていた。

 

 

 ミカが、立ち上がった。

 

 少し、根を詰めたのだろう。首を回して、窓辺へ歩いた。夜気を入れようと、したのかもしれない。掛け金に、手を伸ばした。

 

 その、背中。

 

 窓の遥か向こう。夜の、闇の中。——何かが光った。

 

 シュンカには、それが、何か、分からなかった。ただ、ミカが、窓辺に立った、その一瞬。彼の胸の奥で、名づけようのない、冷たいものが、走った。

 

 ——だめだ。

 

 なぜそう思ったのか。彼自身にも、分からない。ただ、体が動きかけた。

 

 だが、それより、速く。

 

 甲高い、音が鳴った。

 

 

 笛の、音だった。

 

 城のどこかで。セイレーンが、吹いたのだ。ただ一音。夜気を、切り裂く、鋭い、音。

 

 その音が何をしたのか。シュンカには、見えなかった。ただ——遥か彼方、闇の中のあの光が。ほんの、僅かに逸れた。

 

 次の瞬間。

 

 窓辺で、乾いた音が、弾けた。

 

 ミカの頬のすぐ横。窓枠に、何かがめり込んでいた。硬い鉛の塊。——弾丸。

 

 ミカが、動きを止めた。

 

 その頬に。一筋、赤い線が走っていた。

 

 

 時が、止まった。

 

 シュンカには何が、起きたのか、すぐには分からなかった。窓枠の弾丸。ミカの、頬の赤。——それらが、一つの意味に結びつくまで。ほんの数瞬。

 

 その数瞬が。彼の中で、永遠のように引き伸ばされた。

 

 ミカが撃たれた。

 

 誰かがミカを撃った。

 

 ——ミカを。

 

 シュンカは立ち上がっていた。いつ、そうしたのか覚えていない。気づけば、ミカの、傍にいた。少女の頬に。その、赤い線に。指を伸ばしていた。

 

 

 「……ミカ」

 

 声が掠れた。彼の声が、掠れることなどあっただろうか。

 

 「動かないで」

 

 シュンカはその、頬の血を指で拭った。赤が彼の指先についた。温かかった。ミカの、血だった。生きている、証。だが——流れてはならないもの。

 

 「痛い?」

 

 「……平気」ミカは、首を、振った。少し青ざめていた。だが、気丈に。

「掠っただけ。これくらい——」

 

 「動かないで」シュンカは、繰り返した。

 

 彼は、ミカの頬を見ていた。ただ、それだけを。世界から、他の、全てが消えていた。窓も、部屋も、城も、二十万の、帝国も。——ただ、ミカの頬の傷だけが、そこにあった。

 

 その、小さな赤い線。それが、シュンカの、世界の全てを揺らしていた。

 

 

 部屋に、幹部たちが、駆け込んできた。

 

 セイレーンが、真っ先に。その顔は、蒼白だった。「王——! ご無事、ですか。ミカ様は——!」

 

 狙撃手は、既に捕らえられていた。セイレーンが、そう告げた。屋根の上で、 伏せていた影を、取り押さえた、と。逃さなかった、と。

 

 だが、シュンカは、聞いていなかった。

 

 彼はまだ、ミカの頬を、見ていた。血を拭ったその指を。じっと。

 

 幹部たちは、その背中を見て——口を、噤んだ。何も言えなかった。この王が、こんな風になるのを。誰も、見たことがなかった。無感動な、はずの王が。

何にも、動じない、はずの王が。

 

 その、背中が。

 

 微かに震えていた。

 

 

 やがて。

 

 シュンカは、ゆっくりと、立ち上がった。ミカの傷がただの掠り傷だと、確かめてから。手当てをセイレーンに任せてから。

 

 そして、振り返った。

 

 その赤い目には。もう、震えはなかった。ただ静かだった。凪いだ、水面のように。——だが、その静けさは、いつもの、無関心とは違っていた。

 

 幹部たちは、本能的に、悟った。これは嵐の、前の静けさだと。

 

 シュンカは口を開いた。

 

 その声はどこまでも、静かで。そして、どこまでも冷たかった。

 

 「——誰がやったの」

 

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