夜明け編 第6話「秤にかける」
怒りとは、熱いものだと思われている。
——だが、本物の怒りは冷たい。氷のように静かで、正確だ。
「——誰が、やったの」
その問いに答えたのは、赫飛だった。
伝説の殺し屋。影を操る男。捕らえた狙撃手を、彼が引き受けた。城の地下。光の届かぬ場所で。時間はかからなかった。赫飛の前で、口を噤み通せる者などいない。
やがて赫飛は上がってきて、淡々と告げた。
「吐いたよ ——背後にいるのは、この国の政府だ。公安が動いているね」
広間の空気が、凍りついた。
最初に爆ぜたのは、アル・カイドだった。
「——国、だと」その声が震えた。歓喜とも憤怒ともつかぬ、狂気の震えだった。「国が。この僭帝の。王の——王の伴侶に。手を出した、だと」
彼は天を仰いだ。信仰の対象を汚された、狂信者の顔で。
「許されぬ。許されぬ、許されぬ——! 王の聖域を、土足で。あの薄汚い俗世の権力が——!」
「落ち着け、アル・カイド」。だが、そう発したチェインも、拳を鳴らしていた。連撃の指が、ぎち、と軋む。
「……とはいえ、俺も腸が煮えてる。ミカ様に手を出すとはな。国ごと、あの世に送ってやりたい」
イズナの身の周りに、陽炎が揺らめいた。熱線を操る男の怒りが、熱となって肌を焼く。「オレたちの居場所だぜ、ここは。……そのど真ん中に、弾を撃ち込みやがった。国の分際で」
セイレーンは無言だった。だが、その沈黙が最も恐ろしかった。ミカを守れなかった——防いだとはいえ、掠り傷を負わせた。その悔恨と怒りが、蒼白な横顔に刻まれていた。
幹部たちの怒りが、広間に渦を巻いた。
その中で、シュンカは。
玉座に、静かに座っていた。幹部たちの怒声を、聞いているのか、いないのか。その赤い目は、どこか遠くを見ていた。
そして、口を開いた。
広間の喧騒が、その一言で断ち切られた。
「——公安のトップを、ここへ連れてきて」
静寂。
「殺しはしないよ」シュンカは続けた。感情のない声で、淡々と。
「ただ連れてくるだけ。僕の前に。……そして教えてあげる。ミカに手を出したら、どうなるかを」
その言葉の意味を、幹部たちは正確に理解した。
それは、国家への宣戦布告だった。一国の中枢を、力ずくで引きずり出す。——僭帝の武力なら、できる。できてしまう。だが、それはこの国の全てを敵に回すことを意味した。全面戦争の、引き金。
蔦漆が、冷や汗を滲ませて進み出た。
「王。……それは造作もありません。公安のトップ一人、攫ってくるなど。ですが——」。彼は慎重に言葉を選んだ。「それは、国家との全面戦争を意味します。この国の軍。ヒーロー。全てを敵に回す。……そうなれば、もう後戻りはできません」
「それが、どうかしたの」
その無関心な声に、蔦漆の背を悪寒が走った。
この王は本気だ。国家一つを灰にすることに、何の躊躇もない。ミカに手を出された、その一点で。世界の重さと、ミカの頬の傷。この王の秤の上では、それが釣り合ってすらいない。ミカの方が重いのだ。世界より。
幹部たちですら、そのあまりの傾きに、言葉を失った。
「——待て」
その静けさを破ったのは、エディだった。
覇王。純破壊力、最強の男。壁に背を預け、腕を組んで成り行きを見ていた男が、ゆっくりと前に出た。
シュンカの赤い目が、エディを捉えた。
「全面戦争は悪手だ」エディは淡々と言った。挑発でも諫言でもない。ただ事実を並べる口調で。
「勝てるかどうかの話じゃねえ。勝てるさ、そりゃ。俺たちが本気を出しゃあ、この国なんぞ三日で更地だ。——だが、ボスよ」
彼は一拍置いて、シュンカの目を見据えた。
「それは、賢い選び方か?」
シュンカは答えなかった。ただ、エディを見ていた。
「全面戦争になりゃ、戦火は広がる」エディは続けた。「この国のあちこちで、火の手が上がる。国の全軍が、僭帝に牙を剥く。……そうなりゃ、俺たちの守る手も散る。あちこちに割かれる」
彼は、静かに告げた。
「——ミカを守る手も、な」
シュンカの動きが、止まった。
「考えてもみろ」エディは畳みかけなかった。ただ諭すように続けた。
「今日狙ってきたのは、一人の狙撃手だ。セイレーンが防いだ。……だが全面戦争になりゃ、どうだ。国中があの子を狙うぞ。一人や二人じゃ済まねえ。何十、何百という刃が、あの子の喉元に向く」
「お前が国を焼いて回ってる、その間にな」
シュンカは、玉座の肘掛けを、指でゆっくりと辿った。何かを考えている。エディの言葉の意味を。全面戦争が、守りたいそのミカを、より危険に晒すという事実を。
沈黙が、広間に満ちた。
誰も口を挟まなかった。この王と覇王の対話に、割って入れる者はいなかった。
「……じゃあ」ようやくシュンカが口を開いた。「どうすれば、いいの」
エディは内心、深く息をついた。——通じた。この王は話が通じる。ミカのためなら、頭を冷やせる。それがこの王の恐ろしさであり、そして御しやすさでもあった。
「要求を下げろ」エディは言った。「トップの首を、力ずくで獲るんじゃねえ。——法だ。この国の法の下で、今日の狙撃を命じた奴を裁かせろ。最大の厳罰で。それも、公開の場でな」
「それを国に呑ませる。……できるのか、そんなこと」
「できるさ」エディは口の端を吊り上げた。「二十万の武力を背負ってそう要求すりゃあ、国は呑むしかねえ。呑まなきゃ全面戦争だと匂わせりゃいい。——連中は、それが一番怖いんだからな」
「それでいいの。……それでミカを、守れるの」
「守れる」エディは頷いた。「それで伝わるんだよ。——ミカに手を出せば、国は自分の面子を切り売りしてでも、詫びを入れなきゃならなくなる、とな。次に手を出しゃ、今度こそ全面戦争だと。……抑止には、それで十分だ。世界を焼かなくても、な」
シュンカは、しばらく黙っていた。
秤にかけていた。エディの言う道と、自分の望む道を。——本当は今すぐ、公安のトップを引きずり出して、ミカに手を出したらどうなるかを、世界に刻みつけてやりたかった。
だが。
それがミカを、より危険にするなら。
彼は目を閉じ、そして開いた。
「……分かった」静かに言った。「エディに任せる。……その、やり方で」
エディは頷いた。「賢明だ、ボスよ」
シュンカは玉座から立ち上がった。もう、ミカのもとへ行くつもりだった。この話は終わり。あとはエディに任せる。——彼の関心は既にこの場を離れ、少女の傷の方へと向かっていた。
だが去り際、彼は一度だけ足を止めた。
振り返らずに、言った。
「——エディ」
「あ?」
「これは、一度だけだよ」
その声は静かだった。あまりに静かで、それゆえに、広間の全員の背筋を凍らせた。
「一度だけ、法に任せる。お前の言う通りに。……でも、もし。もう一度」
シュンカは続けた。
「もう一度ミカに手を出したら。——その時はもう、誰にも止められないよ。エディにも。法にも。この世界の、何にも」
そして彼は、広間を後にした。
残された幹部たちは、しばらく動けなかった。
エディだけが、低く息を吐いて呟いた。
「……国の連中。分かってねえだろうな。自分たちが、何を突いちまったのか」
彼は、窓の外の闇を見た。
「ミカ嬢がいねぇボスは——手綱のねえ獣だ。たった一本の糸で、辛うじて世界に繋がってる。……その糸を、二度切ろうとしたら」
エディは、目を細めた。
「日本は終わりだ」