第八話「僕のもの」
痛みも、死も、恐怖も。 ——僕には、ずっと、どうでもよかった。 生まれて初めて、どうでもよくないものが、できた。 それが今夜に、連れていかれる。
ミカが闇に呑まれた。
僕はそれを見ていた。
黒い騎士が、ミカを片腕に抱えて歩き始める。祭りの灯りを踏み消しながら、人の波を離れ、町を離れ山のほうへと向かっていく。その歩みに合わせて、闇が地を舐めるように広がっていった。触れた街路樹が枯れ軒先の提灯が燃え尽きるように消え、道に倒れた人々の体から少しずつ熱が失われていく。
誰も追えなかった。追えば闇に呑まれて死ぬ。
それくらいは僕にもわかった。
でも、僕は走り出していた。
考えたわけじゃなかった。危ないとも怖いとも思わなかった。いつもなら僕の体は、生き延びるためだけに動く。少しでも危険なら近づかない。それが、ずっと僕の生き方だった。
なのに今、僕の足はまったく違う理由で動いていた。
ミカを取り返す。
ただ、それだけだった。空っぽの器の底で、最近になってようやく生まれた、たった一つのもの。手放したくない、と思える、ただ一つ。それが今、夜の底へ消えようとしている。それだけは——嫌だ、と。生まれて初めての意思が、僕の全身を突き動かしていた。
僕は、闇の中へ踏み込んだ。
闇が、僕の体に触れる。それは、僕の時間を奪おうとし、心臓を止めようとし、命を喰らおうと牙を剥いた。すべての命を奪う、終末の闇。
——けれど、届かなかった。
「不壊」僕が“止めた”この体は、絶対の不変だ。外界の一切の干渉を、受け付けない。闇の呪いも、例外じゃなかった。あらゆる命を奪う夜の中を、僕だけが、傷一つ負わずに、歩けた。
不思議だった。いつもなら、この個性を使えば、僕の心臓も止まる。長くて五秒。それ以上は、解除しても心臓が動き出さず、死ぬ。穴の空いた個性。それが僕の、ずっとの欠点だった。
なのに今、心臓は止まっていなかった。
絶対の不変を保ったまま、僕の鼓動は規則正しく打ち続けている。なぜなのかわからなかった。ただ、胸のあたりが妙に温かかった。夏祭りに誘ったとき、一度だけ変な動きをしたあの感覚と、どこか似ていた。
まるで、僕の心臓が僕の中ではない、どこか別の場所で、灯り続けているような。
その理由を僕はまだ知らなかった。
考えるのは、後でいい。今は、追う。僕はミカを連れていく黒い騎士の背だけを見据えて、闇の中を駆け上がっていった。
山道を、登る。木々が枯れ、鳥が落ち、闇が広がっていく死の山を僕だけが逆らって駆けた。
やがて、山頂に出た。
広がる闇の中心で、騎士は立ち止まっていた。片腕に、ミカを抱えたまま。王冠を戴いた漆黒の甲冑が、月のない夜のように、聳えていた。その足元まで、僕は登りきっていた。
息を整えもせず、僕は言った。
「ミカを、返して」
騎士の双眸が、僕を見下ろす。大剣を地に突き立て、低く重い声が響いた。
「小僧。——去れ」
「やだ」
「我が主は、——一人でなければ、傷つくのだ」
騎士の声には、歪んだ慈しみがにじんでいた。
「人と交われば、この娘は傷つく。近づけば、いつか裏切られる。だから我は連れていく。誰もいない場所へ。何者にも傷つけられぬ、孤独の底へ。それが、主を守る唯一の道だ」
僕には、その理屈が、よくわからなかった。
寂しさから生まれた怪物が、寂しさで主を守ろうとしている。誰ともつながらなければ傷つかない。だから、世界のすべてから引き剥がして完全な孤独に沈める。——それは、ミカをずっと苦しめてきたものの、正体そのものだった。傷つけてきた当のものを、“守り”だと信じている。
「お前は、その“つながり”だ、小僧。主を傷つける、芽だ。——だから」
大剣が、引き抜かれた。漆黒の刃が、月のない夜をまとう。
「来るなら、殺す。確実に」
それは、脅しではなかった。この騎士が最強であることは、闇の規模を見れば、僕にもわかった。一撃で、人を塵にする夜を含んだ刃が、今僕に向けられていた。
騎士の腕の中で、ミカの意識が、一瞬だけ浮かんだ。
そして、僕を見て——絶望した顔をした。
「……っ、シュンカ。お願い、逃げて。——もう、いいから。私のことは、いいから。お前まで死んだら、私——」
僕は、一歩も退かなかった。
退く理由が、なかった。
ミカは、僕にとってたった一つの手放したくないものだ。それを返せと言っているだけだ、当たり前のことだ。最強だろうが夜だろうが関係ない。
「それ、僕のものだから」
僕は、平坦に言った。
「返してよ」
漆黒の刃が、夜を裂いて、振り下ろされた。
いや、届く必要すら、なかった。ナメレスの一閃は、空間そのものを断ち、目に見えない斬撃となって、僕へと飛んだ。人間なら、掠めただけで塵になる。そういう一撃だった。
それが、僕に命中した。
真正面から、僕の体を捉えて——通り抜けた。
何も、起きなかった。
僕は、傷一つ負わなかった。血の一滴も流れない。それどころか、着ている服の糸一本、切れていなかった。汚れすら付いていない。僕はただ立っていた。最強の斬撃を真正面から受けて、微塵も揺らがずに。
絶対の不変。世界を断つ刃も、僕に限って——なかったことにされる。
斬撃は、僕を素通りして後方へ抜けていった。
背後で、山の木々が音もなく切断されていく。
太い幹が一斉にずれ、倒れていく。岩が割れ、地面が裂ける。最強の一撃の、本当の威力が——僕以外の、すべての上に刻まれていった。
その中心で、僕だけが傷一つなく立っていた。
「……効かないよ、それ」
僕は、平坦に言った。脅威とも、思っていなかった。
ナメレスの双眸が揺れた。最強であるはずの王が、初めて“届かぬ”標的を前にしていた。確実に殺すと言った、その刃が僕の服の糸一本でさえも断てなかった。
騎士は、ミカを一度地面に降ろした。そっと
労わるように。そして、少女の周りに漆黒の障壁を巡らせる。これから起きることから、主だけは守るように。——寂しさの怪物は、最後まで、歪にミカを庇っていた。
そして、すべてを解き放った。
ナメレスが、大剣を地面に叩き込む。
山頂が、爆ぜた。
夜を含んだ、漆黒の大爆発。岩が砕け、土が空へ舞い上がり、衝撃がすべてを薙ぎ払う。山肌が抉れ、木々が根こそぎ吹き飛んだ。終末の一撃。
その爆心の、ど真ん中に僕は立っていた。
舞い上がった土砂が僕に降り注ぐ。——けれど一粒も付かなかった。煤も、塵も、僕の白い髪にも服にも、触れることを許されない。爆風すら僕の前で“なかったこと”になる。僕は汚れ一つなく立ち続けた。
めんどくさいな、と思った。
別に、痛くない。怖くもない。でもこうしているあいだも、ミカはあの障壁の中で、気を失っている。早く返してほしかった。それだけだった。
ナメレスが咆哮した。甲冑の各所から腕が生えた。三本、四本。それぞれが漆黒の剣を握り、僕へと一斉に斬りかかる。逃げ場のない四方からの同時斬撃。
刃が、僕に届く。
——砕けたのは、剣のほうだった。
僕の体に触れた瞬間、漆黒の刃は、接触点から欠落し、崩れ、砕け散った。何本も、何本も。ナメレスの剣が、僕に触れるたびに“喰われる”ように消えていく。攻撃が武器の自壊に変わっていく。
僕は、それらを一瞥もしなかった。
倒れた木々を踏み越え、砕ける剣の雨の中を、一歩また一歩と、ミカのほうへ歩いた。
ナメレスが、空中で大剣を振るった。背後の空間そのものを引き裂く。
裂け目の奥から——咆哮が、轟いた。
現れたのは三つの首を持つ巨大な獣だった。異形の狼。背に巨大な剣を鎖で背負った、夜の獣。それが裂け目をくぐって闇の中に姿を現した。
獣が、三つの顎を、大きく開く。
業火が、噴き出した。
岩を溶かし、大地を焼き、空気を灼く劫火。山頂が一瞬で灼熱の地獄に変わった。爆発の黒と、業火の赤が混じり合いすべてが燃えていた。すべてが砕けていた。生けるものなど一つも存在を許されない終末の坩堝。
その中心に、僕は立っていた。
業火が僕を包む。爆風が僕を叩く。溶岩のような熱が僕を舐める。——けれど、僕は傷一つ負わなかった。煤一つ付かなかった。白い髪は乱れもせず服は焦げ一つなかった。
絶対の不変。“止めた”僕の時間に、爆発も、業火も、あの獣の劫火すらも届かない。世界が燃え尽きても僕の一秒だけは何も起きない。永遠の静止。地獄のど真ん中の完全な凪。
獣は、ただ業火を振りまくだけだった。僕に近づこうとはしなかった。近づいたところで、触れれば自分が欠けるだけだと、本能でわかっているのかもしれない。三つの顎から炎を吐き続け、山を焼く。それ以上のことはしなかった。
僕は、その炎の中をまた一歩前へ出た。
漆黒の障壁の中から、ミカがそれを見ていた。
いつの間にか意識を取り戻していたらしい。彼女は信じられないものを見るように、目を見開いて燃え盛る地獄の中心に立つ僕を、見つめていた。
世界が、燃えていた。彼女が御せなかった最強の怪物が、彼女の一番深い傷の全力が、獣まで引き連れて、文字どおりの地獄を現出させていた。——なのに。
その地獄の中心で、僕だけが何でもないことのように立っていた。焦げ一つなく、傷一つなく。
そして、燃え盛る劫火の中を、僕は彼女のほうへ歩き出した。
ミカの瞳から、何かが零れ落ちるのが見えた。
ナメレスの双眸に深い焦りが宿った。最強の王が、業火を、爆発を、すべてを尽くしてなお、僕の服の糸一本、焦がせなかった。
劫火が、揺らめく。僕は、一歩ずつ、地獄を抜けていく。
あと、少しだった。