夜明け編 第7話「なんでもない」
満たされた時間は、記録に残らない。
——後になって、失って初めて、それが宝物だったと知る。
夜が更けていた。
城の一室。シュンカは、ミカの傍にいた。少女の頬には、小さな絆創膏。手当ては、とうに済んでいた。ただの掠り傷。じきに、痕も残らず消える。——そう、セイレーンは言った。
だが、シュンカは、その絆創膏から、目を離せずにいた。
「……シュンカ」ミカが、少し困ったように笑った。「さっきから、それ、見すぎ」
「見てないよ」
「見てる」ミカは、頬に手を当てた。絆創膏を隠すように。「もう、平気だってば。ほんとに。こんなの、転んだ時の方がよっぽど痛い」
シュンカは、答えなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。
ミカは、知らなかった。
この日、広間で、何が話されたかを。シュンカが、公安のトップを引きずり出そうとしたことを。エディが、それを止めたことを。全面戦争が、ミカ自身を、より危険にするからだと。——シュンカが、どれほどの怒りを堪えたかを。
シュンカは、その全てを、ミカに告げなかった。
告げれば、ミカは気に病む。自分のせいで、シュンカが堪えているのだと。自分の頬の傷一つで、この王が、世界を焼こうとしたのだと。——そんなこと、ミカに、思わせたくなかった。
だから、彼は何でもないふりをした。いつもの夜と変わらないふりを。
ミカが、また机に向かった。書きかけの、何か。シュンカには、やはり分からなかった。ただ、彼女のペンが、紙を擦る音が、戻ってきた。
その音を、シュンカは、聞いていた。
この音が、好きだった。理由は、分からない。ただ、この音が聞こえている間は、世界が、正しい形をしている気がした。ミカが、そこにいて、何かを書いている。それだけで、彼の空っぽの内側は、静かに満ちた。
——もし。
ふと、彼は思った。もし、この音が、聞こえなくなったら。
その先を、彼は、考えなかった。考えたくなかった。今日、その"もし"は、あまりに近くを、掠めた。窓枠にめり込んだ、あの鉛の塊。ミカの頬の、赤い線。——あと、ほんの少し。あと、指一本分、狙いがずれていたら。
この音は、永遠に、聞こえなくなっていた。
シュンカの、指先が、微かに、冷えた。
「……シュンカ」ミカが、顔を上げた。「今日、なんか、変」
「変じゃないよ」
「変だよ」。ミカは、ペンを置いた。じっと、シュンカを見た。「なんか……怒ってる? ううん、怒ってるっていうか。——我慢してる、みたいな」
シュンカの、動きが、止まった。
この少女は、時々、鋭い。誰にも見えないはずのものを、彼女だけが、見る。——シュンカの、無表情の、奥にあるものを。
「我慢なんて、してないよ」。シュンカは言った。静かに。「なんでもない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
ミカは、しばらく、シュンカを見ていた。何かを、確かめるように。——だが、やがて、小さく息をついて、また、机に向かった。
「……ならいいけど」彼女は、呟いた。「無理、してないならいいけど」
無理を、しているのは。
どちらだろう、と、シュンカは思った。
撃たれたのは、ミカだ。頬に、傷を負ったのは。怖かったはずだ。あの一瞬。——なのに、この少女は、平気なふりをしている。シュンカに、心配をかけまいと。「これくらい」と、笑ってみせて。
二人とも、同じことをしていた。相手に、心配をかけまいと。自分の痛みを、隠していた。——それが、可笑しくて。そして、少しだけ、切なかった。
シュンカには、その切なさの名前が、分からなかった。
彼は、ただ、ミカの隣に、座り直した。少女の、書く音の、傍に。
「ねえ、シュンカ」ミカが、ペンを動かしながら、言った。「明日さ。天気、いいって」
「そう」
「だから。ちょっと、庭に出ない? 二人で。……最近、ずっと、部屋の中だったから」
シュンカは、少し、考えた。庭。城の、庭。——そこは、開けている。空が、見える。狙いを、つけやすい場所。今日のことがあって、外に出るのは、危うい。エディや、セイレーンは、止めるだろう。
だが。
ミカが、庭に出たいと、言っている。
「……いいよ」シュンカは、頷いた。「明日。庭に、行こう」
守りは、固めればいい。セイレーンにも、赫飛にも、傍にいてもらえばいい。——ミカが、望むなら。それくらいの、危険は。彼にとって、なんでもなかった。ミカが、笑うなら。
ミカが、嬉しそうに、笑った。その頬の、絆創膏が、少しだけ、動いた。
シュンカは、その笑顔を、見ていた。
——ずっと、これでいい。
彼は、思った。何も要らない。世界も、力も、王の座も。ただ、この音が。この笑顔が。ミカが、隣にいてくれれば。それだけで。
その夜、シュンカは、眠るミカの寝顔を見ていた。
安らかな寝息。頬の絆創膏。細い肩。——この小さな体の中に、彼の世界の全てが入っていた。
彼は、そっと、手を伸ばした。ミカの、髪に、触れるか、触れないか。その、指先。
——守る。
言葉にならない何かが、彼の内側で、静かに固まった。誓いとも、祈りともつかぬもの。この子を、守る。何があっても。誰が、手を出そうと。
もし、もう一度。
誰かが、この子に。この、たった一つの、大切なものに。手を出したら。
その時は。
シュンカは、手を、引っ込めた。ミカを、起こさぬように。そして、静かに、その傍に、身を横たえた。
窓の外で、夜が更けていく。
二人の静かな夜は、まだ続いていた。
——それが、こんなにも脆いものだと。二人は、まだ知らずにいた。