夜明け編 第8話「詫びの値段」
力を持つ者が、力を使わなかった。
——その事実に、救いを見た者と、恐怖を見た者がいた。
要求は、翌朝届いた。
僭帝からの、正式な通達。使者は蔦漆だった。柔和な笑みを浮かべた、あの男。彼は、政府の高官の前に、一枚の書状を置いた。
内容は簡潔だった。
昨夜、僭帝の城を狙撃した者、およびそれを命じた者を、この国の法の下で、公開の場で裁くこと。科すべきは、最大の厳罰。——それを、僭帝は要求する。
「……これは」高官の声が、掠れた。「脅迫か」
「まさか」蔦漆は微笑んだ。
「正当な、法の要求です。内の者が狙撃された。加害者を裁いてほしい。——それだけのこと。何か、おかしいですか?」
その要求が、国家を震え上がらせた。
考えてもみよ、と、対策本部の空気が、語っていた。
「狙撃を命じた者を裁け」。それを呑むということは——狙撃を命じたのが、この国の政府であると、公に認めることに、他ならない。
公開の場で裁く。誰を? 公安のトップを。あるいは、その計画を承認した、
政府の要人を。——それは、国家が、自ら、自国の暗殺計画を、白日の下に晒すことを、意味した。子供を、一人、殺そうとした。その事実を、世界に向けて、告白することを。
「呑めるわけがない」公安のトップが、呻いた。
「呑めば、政府は、終わりだ。我々は、子供の暗殺を企てた、と自ら認めることになる。国内外の、信用は地に落ちる」
「では、呑まぬのか」官僚が、青ざめて問うた。「呑まねば——」
「全面戦争だ」誰かが、呟いた。「あの、二十万が。牙を剥く」
室内が、静まり返った。
呑めば、政府が崩壊する。呑まねば、国家が焦土になる。
どちらも、破滅だった。——僭帝は、その、逃げ場のない秤を、静かに、突きつけてきていた。
「……あの王は」公安のトップが、額の汗を拭った。「なぜ、こんな、回りくどいことを。力ずくで、我々を、皆殺しにすることも、できたはずだ。あの武力なら。なのに——なぜ、法などに」
答えられる者は、いなかった。
彼らは、まだ、理解していなかった。あの王が、なぜ、力を使わなかったのかを。——それが、王自身の意志ですらなかったことを。覇王が、王を、押しとどめたのだということを。そして、その抑制が、いかに、細い糸の上にあるのかを。
同じ報せは、ヒーローたちの元にも、届いていた。
だが、彼らの反応は、政府とは、まるで、違っていた。
「……法で、裁けだと」ホークスが、書状の写しを、見つめていた。
「あの王が。力ずくじゃなく。——法に、委ねてきた?」
「そうだ」ベストジーニストが、頷いた。「僭帝は、要求している。狙撃犯を、法の下で裁け、と。……力で報復する代わりに」
沈黙が落ちた。だが、それは恐怖の沈黙ではなかった。
オールマイトが、ゆっくりと顔を上げた。その痩せた顔に。微かな光が差していた。
「——まだ、間に合うかもしれん」
「あの子は」オールマイトは、絞り出すように、言った。「力を、使わなかった。あれほどの、力を持ちながら。——法に委ねた。それはつまり」
彼は言葉を探した。
「あの子とは、まだ話ができる、ということだ。理屈が、通じる、ということだ。力で、全てを薙ぎ払うAFOや死柄木のような怪物なら、こんな要求はしてこない。とっくに、この国は灰になっている。——だが、あの王はそうしなかった。法という我々の、ルールに乗ってきた」
ホークスが目を見開いた。「……対話の余地があるってことか」
「そうだ」オールマイトは頷いた。「まだ遅くない。政府がこの要求を、呑めば。誠実に詫びれば。——あの王は矛を収める。この国は救われる。戦争にも、破滅にも、ならずに済む」
彼の声に、久しく、なかった熱が戻っていた。神野以来、ずっと、彼を苛んできた、あの無力。それを、覆せるかもしれない、一縷の望み。
——子供を、守れるかもしれない。今度こそ。
だが。
その望みは、政府の一室で、静かに、握りつぶされようとしていた。
「呑めば、政府が終わる」公安のトップの声は、もはや恐怖ではなく、追い詰められた者の、冷たい決意に変わっていた。
「ならば——呑まずに、済ませる道を、探すしかない」
「済ませる、とは」
「あの王の、力の源は、あの少女だ」トップは、低く、言った。
「一度目は、失敗した。防がれた。……だが、二度目がある。今度は、しくじらぬように。ヒーローにも悟られぬように。もっと遠くから。もっと確実に」
室内の、誰かが、息を、呑んだ。
「もう一度あの少女を、狙うと?」
「それしか、ない」。トップは、目を、閉じた。
「あの少女さえ消えれば。王も機能を止める。——要求を、呑む必要も、戦争も、なくなる。全ては、なかったことにできる」
「だが……ヒーローが。彼らは、暗殺に反対して——」
「だから、隠すのだ」トップは、言った。
「奴らには、悟らせるな。一度目と、同じだ。奴らが、気づいた時には、全てが、終わっている」
同じ夜。
オールマイトは、一縷の望みを胸に、政府への、働きかけを、始めていた。要求を呑め、と。誠実に詫びれば、戦争は避けられる、と。——彼は、信じていた。まだ、間に合うと。対話が、通じると。
その、彼の、必死の奔走の、すぐ裏で。
国家は二度目の刃を、研ぎ始めていた。ヒーローの目を、盗んで。今度こそ、確実に、あの少女を、仕留めるために。
オールマイトは、知らなかった。
彼が、救おうとしている、まさにその瞬間に。彼の背後で、破滅への、引き金が、再び、引かれようとしていることを。
そして、僭帝の城では。
シュンカとミカが、約束を、交わしていた。明日、庭に出よう、と。天気が、いいから。二人で。
——開けた、空の下へ。
狙いを、つけやすい、その場所へ。
夜が、静かに、更けていく。
いくつもの思惑が、いくつもの祈りが、いくつもの刃が。たった一人の少女の、明日の、笑顔に向かって。音もなく、収束しようとしていた。