夜明け編 第9話「晴れた日に」
人は時に、正しいことを選べる。
たとえそれが間に合わぬとしても。
朝から、よく晴れていた。
約束の日。ミカが庭に出たいと言った、その日。空は雲一つなく青かった。
シュンカは、ミカと並んで庭に出た。城の裏手の庭。芝が朝露に濡れて光っていた。開けた空の下。——遮るもののない、その場所。
守りは固めてあった。セイレーンがすぐ後ろに。赫飛の影が、庭のあちこちに潜んでいた。今日のことがあって、無防備に外へ出すわけにはいかない。
だが、ミカが望むなら。それくらいの備えは、する。
ミカは久しぶりの外気に目を細めていた。
「……きもちいい」彼女が呟いた。「ずっと、部屋の中だったから」
シュンカはその横顔を見ていた。頬の絆創膏はもう取れていた。傷も、ほとんど消えかけていた。——ミカが笑っている。それでよかった。
だがその時。城の遠くの空を。
シュンカは意識の、片隅で警戒していた。
——あの日と同じ。開けた場所。狙いをつけやすい。もし、また誰かが。遥か彼方から、この子を狙っているなら。
彼の赤い目が、空の遠くを探った。屋根の上。丘の稜線。——どこかに、伏せる影はないか。あの冷たい光は、ないか。
だが。
何も、なかった。
風が吹くだけだった。芝を撫でて。ミカの髪を揺らして。——刃は、来なかった。
その、静けさの意味を。シュンカは、まだ、知らなかった。
同じ頃。遥か離れた場所で、一人の男が、その手を止めていた。
公安の、トップだった。
彼は、自分の執務室で、一枚の書類を見つめていた。二度目の狙撃の、実行計画。彼自身が承認しかけた、命令書。——あの、掠り傷で、済んだ一度目の、次。今度こそ、確実に、あの少女を、仕留めるための、段取り。
彼はその書類を、幾度も手に取った。そして幾度も置いた。
——子供を殺す。
その一言が。彼の中で澱のように、沈んで離れなかった。
最初は、割り切れると思っていた。国家の安全のため。大局のため。一人の少女を犠牲にすることは、やむを得ぬと。——だが。夜が来るたびに、彼は眠れなくなっていた。
あの僭帝の要求が、頭から離れなかった。「狙撃を命じた者を、法の下で裁け」。——正当な要求だった。あまりに、正当な。撃たれた側が、加害者を裁いてくれと言っている。ただ、それだけの、まっとうな要求。
そして、その加害者とは。自分だった。この国の政府だった。
彼は、目を閉じた。
脳裏に、浮かぶものがあった。自分の孫の、顔。——同じくらいの年頃だった。あの、僭帝の少女と。
もし、あの子が。誰かに、国家の都合で狙われたら。自分は、どうする。——考えるまでもなかった。世界を敵に回してでも、守る。当たり前だ。人間なら。
なのに、自分は。今、それをやろうとしている。誰かの大切な子供を。国家の都合で、消そうとしている。
「……ばかな」彼は、呟いた。掠れた声で。「私は。何をしようと、していたんだ」
彼は、立ち上がった。
そして、内線の受話器を取った。声は震えていた。だが、その言葉は、はっきりしていた。
「——計画を、中止する。全ての、暗殺計画を。今すぐだ」
受話器の、向こうで。戸惑う声が、した。だが、彼は繰り返した。
「聞こえなかったか。中止だ。……そして、私は罪を認める。僭帝の要求を呑む。公開の裁判を開く。狙撃を命じたのは、私だ。私が法の下で裁かれる」
「——お待ちください。それは政府が。あなた自身が破滅——」
「破滅で、結構だ」彼は、目を、閉じた。「子供を、殺すよりは。……よほど、ましだ」
その報せは。その日のうちに、駆け巡った。
オールマイトの元にも、届いた。彼は、その報告を聞いて、しばらく動けなかった。そして、痩せた顔を、手のひらで覆った。
「……そうか」。彼の声が、震えた。「認めたか。あの男が。……罪を」
「ええ」ホークスが、頷いた。その顔にも 安堵があった。「公開裁判を、開くと。僭帝の要求を、呑むと。……オールマイト。これで」
「ああ」オールマイトは顔を上げた。その目に光るものがあった。
「これで、戦争は避けられる。あの子は守られる。——間に合ったんだ」
彼は、天を仰いだ。神野以来彼を苛んできた、あの無力。子供を守れなかった、あの罪。——それが今ほんの少しだけ、報われた気がした。今度は守れた。力ずくではなく。人の良心がそれを成した。
僭帝の城にも、報せは届いた。
蔦漆が、シュンカに告げた。「ボス……国が、折れました。公安のトップが、罪を認め、公開裁判を開くと。我々の要求を、全て呑むそうです」
シュンカは、庭から戻ったところだった。ミカと並んで。
「……そう」彼は短く応えた。「じゃあ、もう。いいんだね」
「はい」蔦漆は、頷いた。「これで、収まります。国は詫びを入れ、裁きを行う。……ミカ様に二度と、手を出さぬよう。抑止も効きましょう」
エディが、壁際で腕を組んで、低く言った。「……存外、あっさり片付いたな。国も、馬鹿じゃなかった、ってことか。全面戦争なんぞ、誰も望んじゃいねえ」
彼は息を吐いた。安堵の、混じった吐息。
「これで、終わりだ」
その夜。
城は静かだった。刃の気配は、もうなかった。ミカはいつものように、机に向かい、シュンカは、その傍で書く音を聞いていた。穏やかな夜。取り戻された日常。
誰もが思っていた。これで、収まったと。
国家は、良心を、取り戻した。ヒーローの望みは報われた。僭帝は、矛を収めた。——全てが正しい場所に収まった。血を流さずに。子供を殺さずに。
だが。
その安堵の、ずっと外側で。
海の、向こうで。この国を見つめる、いくつもの冷たい目が、あった。
——日本に。国家の暗殺すら、弾き返す化け物が いる。
その事実が。今、公開裁判という形で。世界に、知られようと、していた。
夜が、静かに更けていく。