夜明け編 第10話「扉」
誰も、あの子に、言わなかった。
——別の生き方も、あるのだと。
たった一人。それを言おうとした男がいた。
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公開裁判の、準備が進む中。
オールマイトは、一つの思いつきを温めていた。
いや——思いつき、というには、あまりに切実なものだった。
彼は緑谷と相澤を呼んだ。人気のない放課後の、教室の外は夕暮れだった。
「二人、聞いてほしい話がある」。オールマイトは切り出した。
「あの僭帝の王。シュンカという少年のことだ」
緑谷が姿勢を正した。相澤はいつもの気だるげな目で、だが静かに耳を傾けた。
「私は、ずっと考えていた」オールマイトは言った。「あの子をどう止めるか。
どう、この国の脅威から遠ざけるか。どう裏の暗闇から救い出すか。
——だが最近思うんだ。それは問いの立て方が間違っていたと」
「間違い、ですか」緑谷が問うた。
「ああ」オールマイトは、頷いた。
「私たちはずっとあの子を、"僭帝の王"として見てきた。倒せない化け物として。
二十万を束ねる脅威として。——だが、な。あの子はいくつだと思う」
緑谷がはっとした。
「……子供、です」彼は呟いた。「僕たちとそんなに変わらない。まだ子供だ」
「そうだ」オールマイトの声が、静かに震えた。
「あの子は、学校にも通う歳だ。友達と笑って。くだらないことで喧嘩して。試験で頭を抱えて。……そういう時間を、過ごすはずの歳なんだ」
教室が、静まった。
「なのに、あの子には」オールマイトは続けた。
「その選択肢が、なかった。生まれた時から。誰も、あの子に、"別の生き方"を、教えなかった。——ある者は、あの子を道具にしようとした。ある者は消そうとした。
ある者は、王として担いだ。……皆、あの子を"今のあの子"として扱った。その先を、見た者はいなかった」
彼は拳を握った。
「私は、それを変えたい」
「変えるとは」相澤が初めて口を開いた。低い声で。
「あの子に、扉を開いてやりたいんだ」オールマイトは言った。
「選択肢を、増やしてやりたい。——王として生きる道しか知らないあの子に。別の道も、あるのだと。子供として生きる道も、あるのだと。それを見せてやりたい」
「具体的には、何をするんです?」相澤が問うた。教師の顔で。
「学校だ」オールマイトは言った。
「あの子が望むなら。学校に通える道を、作れないか。ヒーロー科でなくても、いい。普通科でも、通信でもなんでもいい。——あの子が、同じ歳の子供たちと机を並べる。そういう時間を。一度でも味わわせてやれないか」
相澤は腕を組んだ。しばらく黙っていた。
「……難しい」彼は、言った。
「正直に言えばですが。あの子は、指名手配級の危険人物だ。二十万の頂点だ。それを、学校に通わせる? 世間が許さん。制度が許さん。……現実的には不可能に近い」
「……そうですよね」緑谷が肩を落とした。
だが、相澤は続けた。
「——だが」その気だるげな目に。微かな光があった。
「不可能ではないかもしれん。……あの子が望めば、の話だが、少なくとも考える価値は、ある。子供に選択肢を与える。それは——教師の仕事だからな」
緑谷が顔を上げた。その目が輝いていた。
「オールマイト。僕思うんです」彼は言った。
「その計画。……すごくいいと思います。だって——あの子は、たぶん知らないんです。自分に、別の道が、あることを。ミカちゃんっていう、大切な人がいて。
その人と王様としてじゃなく、ただの二人の子供として生きる道があることを。……誰も、教えてあげなかったから」
彼は拳を、胸に当てた。
「僕、手伝いたいです。あの子に、その扉を見せるの。——もしかしたら。あの子は、王様なんかやめて。ミカさんと、普通に笑って暮らせるかもしれない。学校に通って。友達を作って。……そういう、未来があるって。知ってほしい」
オールマイトはその、緑谷の顔を見た。かつての自分が。託した少年。
その少年が、今、自分と同じことを願っている。子供を救いたい、と。力ずくでは、なく。その子の未来を広げることで。
「……ああ」オールマイトは微笑んだ。痩せた顔で。だがその笑みには、久しく、なかった、希望があった。
「そうだな。……やってみよう。あの子に、扉を。子供として、生きる、選択肢を」
三人は、その夜、遅くまで、語り合った。
どうすれば実現できるか。世間をどう納得させるか。あの子にどう切り出すか。ミカという少女も、一緒に通えないか。——一つずつ。一つずつ。その途方もない計画を、それでも真剣に。
それは、まだ絵に描いた餅だった。ヒーロー側の、構想に過ぎなかった。
シュンカ本人は、何も知らない。この教室で、自分の未来が語られていることなど。
三人の大人と少年が、自分に、"子供として生きる道"を、贈ろうとしていることなど。
だが、それでも。
その夜、その教室には。確かに、温かいものが、あった。一人の少年の、閉ざされた扉を、こじ開けようとする優しさが。神野で背負わせてしまった重荷を、今度こそ下ろしてやろうとする、贖いが。
「……間に合わせよう」オールマイトは、呟いた。
「あの子に。子供らしい、時間を。一日でも、早く」
同じ夜。
海の、向こうで。
いくつかの国の要人たちが、日本の政府に、圧力をかけ始めていた。公開裁判の報が、世界を駆け巡った後。——日本に、国家の暗殺すら弾き返す、化け物がいる。その事実が、世界を震え上がらせていた。
「あんなものを、野放しに、するな」彼らは、言った。「いつか必ず、世界の脅威になる。……日本には、あれを制御できない。ならば——消せ。できないなら、我々が、動く」
その圧力に。日本の政府中枢は。良心を取り戻した公安のトップの、頭越しに。
再び、動き始めていた。
今度は、確実に。三キロの彼方からでも、標的を射抜く。個性持ちの狙撃手を、雇い入れながら。
オールマイトたちが、一人の子供に、扉を開こうとしている。その、まさに同じ夜に。
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