夜明け編 第11話「三キロの距離」
引き金を引く指に、善悪はない。
——ただ、追い詰められた者の、震えがあるだけだ。
男は、丘の上に伏せていた。
城から三キロ。個性がなければ届かぬ距離。だが、男の個性は、その距離を無にする。狙ったものを必中で射抜く。——だからこそ男は選ばれた。この汚れ仕事に。
スコープを覗く。三キロ先の城の庭が、手に取るように見えた。
男は、の住人だった。長く日陰を生きてきた。金のためなら、何でもやった。人も、撃った。——だから、目をつけられた。国に。「お前の腕が要る」と。
断ればどうなるか。男は知っていた。
逆らえば、国は男を切り捨てる。叩けば、埃はいくらでも出る身だ。逮捕。あるいは、それ以上。——国に逆らった裏の住人がどうなるか。生きて娑婆には戻れまい。
だが。
受ければ、受けたで地獄だった。標的は僭帝。あの二十万の帝国。——その王の、伴侶を撃つ。撃てば、男は、裏社会で生きていけなくなる。どこへ逃げても、あの帝国の手が伸びる。裏の世界に、僭帝を敵に回した男の、居場所などない。
逆らえば、表に殺される。受ければ、裏に殺される。
——詰んでいた。最初から。
*
そんな男に。国はたった一つの、出口を差し出した。
「やれば、保護する」そう言った。「僭帝からは、我々が、匿う。新しい身分を、やる。安全な場所を。——お前は助かるんだ。撃ちさえすれば」
男はそれに、すがった。すがるしかなかった。
撃てば助かる。国が守ってくれる。裏社会からも、僭帝からも、逃してくれる。新しい人生を、くれる。——男はそれを繰り返し、自分に言い聞かせた。震える指を、その約束でなだめた。
「……大丈夫だ」男は、呟いた
「撃てば助かる。国が守ってくれる。……守ってくれるよな?」
その、語尾が。揺れた。
男自身、信じきれていなかった。国が自分のような男を本気で守るのか。用が済めば切り捨てるのが、連中のやり方だと、裏で生きてきた男は、骨身に染みて知っていた。——だが、信じるしかなかった。他にすがるものがなかったから。
スコープの中に。標的がいた。
黒髪の少女。ミカというらしい。あの王の命綱。——それを撃てば、王は終わる。国はそう言った。少女さえ消えれば、あの怪物は無力化する、と。
男はその少女を見た。
……子供だった。
当たり前だ。分かっていた。だが、スコープ越しに見る、その姿は。ただの、幼い少女だった。白い髪の、少年と。並んで。何か他愛のないことを話して。笑って。
男の指が。止まった。
——撃ちたくない。
その思いが、胸の底から突き上げてきた。子供だ。あの子は。ただの子供だ。
撃つべき標的なんかじゃ、ない。
男は裏の住人だった。人も撃ってきた。だが——子供は。子供だけは。
汗が、額を流れた。スコープを持つ手が、震えた。引き金にかけた指が、動かない。
撃てば、あの子は死ぬ。まだ、あんなに幼いのに。あんなに、笑っているのに。
だが。
撃たなければ、俺が死ぬ。国に切られる。裏に追われる。——どっちにしても、俺は詰んでる。だったら。だったら、せめて。
「……すまねえ」男は、呟いた。誰にともなく。少女にとも、自分にとも、つかず。「すまねえ。俺には……他に、道が、ねえんだ」
目を、つぶるように。震える指に、力を込めた。
同じ頃。城の庭。
シュンカと、ミカは、並んで、座っていた。
あの日の約束通り、二人は、また庭に出ていた。国が折れ、暗殺は凍結された。もう、刃の気配はない。——そう、皆が思っていた。だから、その日の庭は、穏やかだった。守りも、あの日ほど張り詰めては、いなかった。
「ねえ、シュンカ」ミカが、空を、見上げた。「あのね。……ちょっと、思ったんだけど」
「なに」
「わたしたち。これから、どうなるのかな」ミカは、少し笑った。
「ずっと、こうやって。二人で。……いられるのかな」
シュンカはその横顔を見た。茜色の光が少女の頬を照らしていた。
「いられるよ」彼は言った。静かに。「ずっと。……僕が、いるから」
ミカが嬉しそうに、笑った。そして、シュンカの肩に、そっと、頭を預けた。
穏やかな、夕暮れだった。世界が、優しく、凪いでいた。二人の、時間が。ただ、静かに、流れていた。
——その時。
空気を、裂く音が、した。
いや、音より速く。それは来た。三キロの彼方から。必中の個性を乗せて。
シュンカの、目の前で。
ミカの、体が。
跳ねた。
肩に、預けられていた、その頭が。ぐらり、と、傾いだ。細い体が、糸の切れた人形のように、シュンカの腕の中へ、崩れ落ちた。
——赤が。
広がっていた。少女の体から。茜色の光の中で。それより濃い、赤が。じわり、と。
「……ミカ?」
シュンカの声が。掠れた。
ミカは、答えなかった。閉じた、瞼。傾いだ、首。開いた、唇からは、言葉ではなく——か細い、息だけが、漏れていた。
「ミカ……?」
その腕の中で。少女の体から、力が抜けていく。温もりが、赤とともに、流れ出していく。
シュンカは。動けなかった。
自分の腕の中で、大切なものが崩れていく、その、あまりの現実に。
茜色の空の下で。
世界が。
止まった。