夜明け編 第12話「動かない」
最強の王が、一つの傷を癒せなかった。
世界を壊せる力は大切なものを、救う力ではなかった。
ミカは、生きていた。
辛うじて。運び込まれた病室で、蔦漆が掻き集めた医者たちが、幾時間もかけて、その命を繋ぎ止めた。弾は、急所を僅かに逸れていた。三キロの狙撃手が
最後の最後で、指を震わせたのか——それは、誰にも分からない。ただ、少女の心臓は、まだ動いていた。
だが、意識は戻らなかった。
蒼白な顔。細い呼吸。包帯に覆われた小さな体。——ミカは、生と死の境で、静かに眠っていた。
シュンカは、その傍にいた。
ベッドの脇の椅子。そこに座って、ミカの寝顔を見ていた。ただそれだけ。
何時間も。彼は動かなかった。
手を握るでもなく。泣くでもなく。何かを叫ぶでもなく。ただ、座って、少女の浅い呼吸を聞いていた。その胸が上下する、微かな動きを。見つめていた。まるで、目を離せば、それが止まってしまうとでも、いうように。
世界を壊せる力を、持っていた。国家を灰にできる力を。
だが——その力で、この一つの傷を、癒すことはできなかった。ミカの流れた血を、戻すことは。塞がれた傷を、開くことは。不変は、他人には及ばない。シュンカの絶対は、ミカのこの体の前で、何の意味も、なさなかった。
彼は、ただ、無力に、座っていた。
病室の外。あるいは、その片隅。
幹部たちがいた。それぞれの様子で。
チェインは、拳を握りしめていた。壁に叩きつけたいのを、堪えるように。
「……卑劣だ」低く、呻いた。
「一度、詫びておきながら。裁判を開くと、抜かしておきながら。……その裏で、また撃った。三キロの狙撃で。子供を。——政府のやることか。これが」
その怒りは正しかった。まっとうな義憤だった。だが、それをぶつける先が
ここにはなかった。
セイレーンは壁に背を預け俯いていた。その手が震えていた。
——二度。二度、彼女は、ミカの傍にいた。一度目は、防いだ。だが、二度目は。三キロの彼方からの刃は、彼女の笛では届かなかった。守れなかった。
守ると、決めていたのに。「……申し訳、ございません」誰にともなく、彼女は、呟いた。
「ミカ様……申し訳、ございません」
赫飛は、無言だった。伝説の殺し屋。だが、今は、その凄みも鳴りを潜め、ただ静かに、病室の扉を見つめていた。案じるように。その静けさが、彼の心配の深さだった。
蔦漆は、そこにいなかった。走り回っていた。裏社会の、あらゆる伝手を使って。名医を。設備を。血を。ミカを生かすために必要な、全てを、掻き集めるために。——彼の有能さだけがこの修羅場で、命を繋ぐ現実の力になっていた。
イズナはいなかった。遠方へ出ていた。まだ、この報せは届いていない。
そして——アル・カイドだけが。
異質だった。
彼は、病室の片隅に立って、恍惚としていた。その目は潤み、頬は上気し、口元には、微かな笑みすら浮かんでいた。——他の全員が、痛みに沈み、怒りに震える、その中で。彼だけが、震えていた。歓喜に。
「……穢された」彼は囁いた。祈るように。
「王の、聖域が。あの、薄汚い、俗世の手で。——ならば」
彼は天を仰いだ。
「ならば、王よ。……滅ぼしてくださいませ」
その声は、震えていた。法悦に。
「この、穢れた世界を。あなたの聖域を穢した、この下賤な世界を。——全て。焼き尽くしてくださいませ。あなたの御手で。それこそが、正しい。それこそが、あるべき裁き。……ああ王よ。どうか。どうか、その力を」
狂気だった。他の誰もが、王の決壊を恐れる中で。アル・カイドだけが、それを待ち望んでいた。神罰の顕現として。信仰の成就として。——その恍惚が、悲痛な病室の中で、ぞっとするほど場違いに、輝いていた。
幹部たちは。皆、シュンカの、背中を、見ていた。
動かない、王の、背中を。
彼らは、知っていた。この王を動かすものが、たった一つしかないことを。そして、その一つが、今、ベッドの上で、生死の境を彷徨っていることを。——もし。もし、ミカが。このまま。
その先を、誰も、口にしなかった。だが、全員が、同じことを、考えていた。
——王が、動いたら。
この世は、終わる。
チェインの義憤も。セイレーンの悔恨も。赫飛の心配も。蔦漆の奔走も。アル・カイドの、狂気の願いすら。——全ては、あの動かない背中の、次の一手にかかっていた。王が、立ち上がるか。座り続けるか。それだけで、世界の命運が、決まる。
だから、彼らは、固唾を呑んで、見ていた。恐れながら。あるいは——ただ一人、願いながら。
だが、シュンカは。
動かなかった。
彼は、ただ、ミカの、寝顔を、見ていた。その、浅い呼吸を、聞いていた。胸の、微かな、上下を。
——動いてはならない。
彼の中で、何かが、そう囁いていた。動けば。この椅子を立てば。それは、認めることになる。ミカが、このまま目を覚まさないかもしれない、という現実を。——だから、動かない。動かなければ、ミカは、まだここにいる。まだ、繋がっている。この静かな時間が、続いている限り。ミカは死なない。
それは、祈りだった。動かないことが。彼にできる、たった一つの祈りだった。
彼は、ミカの胸の音を、聞いていた。まだ、動いている。まだ、動いている。——その音が続く限り、彼は、動かずにいられた。
病室に、夜が満ちていく。
眠る少女と。動かない王と。その次の一手を恐れる者たちと願う者と。
——静けさは。
嵐の前のものだった。