[完結]空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

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第82話「動かない」

夜明け編 第12話「動かない」

 

最強の王が、一つの傷を癒せなかった。

 

世界を壊せる力は大切なものを、救う力ではなかった。

 

 

 ミカは、生きていた。

 

 辛うじて。運び込まれた病室で、蔦漆が掻き集めた医者たちが、幾時間もかけて、その命を繋ぎ止めた。弾は、急所を僅かに逸れていた。三キロの狙撃手が

最後の最後で、指を震わせたのか——それは、誰にも分からない。ただ、少女の心臓は、まだ動いていた。

 

 だが、意識は戻らなかった。

 

 蒼白な顔。細い呼吸。包帯に覆われた小さな体。——ミカは、生と死の境で、静かに眠っていた。

 

 

 シュンカは、その傍にいた。

 

 ベッドの脇の椅子。そこに座って、ミカの寝顔を見ていた。ただそれだけ。

 

 何時間も。彼は動かなかった。

 

 手を握るでもなく。泣くでもなく。何かを叫ぶでもなく。ただ、座って、少女の浅い呼吸を聞いていた。その胸が上下する、微かな動きを。見つめていた。まるで、目を離せば、それが止まってしまうとでも、いうように。

 

 世界を壊せる力を、持っていた。国家を灰にできる力を。

 

だが——その力で、この一つの傷を、癒すことはできなかった。ミカの流れた血を、戻すことは。塞がれた傷を、開くことは。不変は、他人には及ばない。シュンカの絶対は、ミカのこの体の前で、何の意味も、なさなかった。

 

 彼は、ただ、無力に、座っていた。

 

 

 病室の外。あるいは、その片隅。

 

 幹部たちがいた。それぞれの様子で。

 

 チェインは、拳を握りしめていた。壁に叩きつけたいのを、堪えるように。

 

「……卑劣だ」低く、呻いた。

 

「一度、詫びておきながら。裁判を開くと、抜かしておきながら。……その裏で、また撃った。三キロの狙撃で。子供を。——政府のやることか。これが」

 

 その怒りは正しかった。まっとうな義憤だった。だが、それをぶつける先が

ここにはなかった。

 

 セイレーンは壁に背を預け俯いていた。その手が震えていた。

——二度。二度、彼女は、ミカの傍にいた。一度目は、防いだ。だが、二度目は。三キロの彼方からの刃は、彼女の笛では届かなかった。守れなかった。

守ると、決めていたのに。「……申し訳、ございません」誰にともなく、彼女は、呟いた。

 

「ミカ様……申し訳、ございません」

 

 赫飛は、無言だった。伝説の殺し屋。だが、今は、その凄みも鳴りを潜め、ただ静かに、病室の扉を見つめていた。案じるように。その静けさが、彼の心配の深さだった。

 

 蔦漆は、そこにいなかった。走り回っていた。裏社会の、あらゆる伝手を使って。名医を。設備を。血を。ミカを生かすために必要な、全てを、掻き集めるために。——彼の有能さだけがこの修羅場で、命を繋ぐ現実の力になっていた。

 

 イズナはいなかった。遠方へ出ていた。まだ、この報せは届いていない。

 

 

 そして——アル・カイドだけが。

 

 異質だった。

 

 彼は、病室の片隅に立って、恍惚としていた。その目は潤み、頬は上気し、口元には、微かな笑みすら浮かんでいた。——他の全員が、痛みに沈み、怒りに震える、その中で。彼だけが、震えていた。歓喜に。

 

 「……穢された」彼は囁いた。祈るように。

 

「王の、聖域が。あの、薄汚い、俗世の手で。——ならば」

 

 彼は天を仰いだ。

 

 「ならば、王よ。……滅ぼしてくださいませ」

 

 その声は、震えていた。法悦に。

 

 「この、穢れた世界を。あなたの聖域を穢した、この下賤な世界を。——全て。焼き尽くしてくださいませ。あなたの御手で。それこそが、正しい。それこそが、あるべき裁き。……ああ王よ。どうか。どうか、その力を」

 

 狂気だった。他の誰もが、王の決壊を恐れる中で。アル・カイドだけが、それを待ち望んでいた。神罰の顕現として。信仰の成就として。——その恍惚が、悲痛な病室の中で、ぞっとするほど場違いに、輝いていた。

 

 

 幹部たちは。皆、シュンカの、背中を、見ていた。

 

 動かない、王の、背中を。

 

 彼らは、知っていた。この王を動かすものが、たった一つしかないことを。そして、その一つが、今、ベッドの上で、生死の境を彷徨っていることを。——もし。もし、ミカが。このまま。

 

 その先を、誰も、口にしなかった。だが、全員が、同じことを、考えていた。

 

 ——王が、動いたら。

 

 この世は、終わる。

 

 チェインの義憤も。セイレーンの悔恨も。赫飛の心配も。蔦漆の奔走も。アル・カイドの、狂気の願いすら。——全ては、あの動かない背中の、次の一手にかかっていた。王が、立ち上がるか。座り続けるか。それだけで、世界の命運が、決まる。

 

 だから、彼らは、固唾を呑んで、見ていた。恐れながら。あるいは——ただ一人、願いながら。

 

 

 だが、シュンカは。

 

 動かなかった。

 

 彼は、ただ、ミカの、寝顔を、見ていた。その、浅い呼吸を、聞いていた。胸の、微かな、上下を。

 

 ——動いてはならない。

 

 彼の中で、何かが、そう囁いていた。動けば。この椅子を立てば。それは、認めることになる。ミカが、このまま目を覚まさないかもしれない、という現実を。——だから、動かない。動かなければ、ミカは、まだここにいる。まだ、繋がっている。この静かな時間が、続いている限り。ミカは死なない。

 

 それは、祈りだった。動かないことが。彼にできる、たった一つの祈りだった。

 

 彼は、ミカの胸の音を、聞いていた。まだ、動いている。まだ、動いている。——その音が続く限り、彼は、動かずにいられた。

 

 病室に、夜が満ちていく。

 

 眠る少女と。動かない王と。その次の一手を恐れる者たちと願う者と。

 

 ——静けさは。

 

 嵐の前のものだった。

 

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