夜明け編 第13話「動き出す」
動かないことは、祈りだった。
——ならば、動き出すことは。
祈りを、手放すことだった。
どれほどの時間が経ったのか。
シュンカは動かないまま、ミカの寝顔を見ていた。まだ動いている。胸の微かな上下。まだ繋がっている。——だが、その静かな時間の中で。
一つの、報せが届いた。
蔦漆が掴んだ情報。——狙撃は国家が放ったもの。一度詫びると言った、
その国家が。公開裁判を開くと約束したその国家が。その裏で他国の圧力に屈して。良心を取り戻した者の、頭越しに。もう一度刃を放った。三キロの彼方から。
確実にミカを殺すために。
シュンカはそれを聞いた。
表情は変わらなかった。動きもしなかった。ただ——その赤い目の奥で。何かが、静かに凍りついた。
「——エディ」
シュンカの声が、病室に落ちた。
その声は静かだった。あまりに静かで近くにいた幹部たちの背筋が凍った。
「僕は言ったよね」シュンカは、ミカの寝顔を見つめたまま、言った。
「もう一度、ミカに手を出したら。——誰にも、止められないって」
エディは答えなかった。ただ王の背中を見ていた。
「国が、越えた」シュンカは、続けた。「一度許した。エディの言う通りに。
法に任せた。……なのにまた。ミカを」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間。病室の空気が、変わった。動かなかった王が動いた。
——それだけで、世界の何かが、決定的に傾いた。
「決めた」シュンカは言った。静かに。「国を滅ぼす。トップも。公安も。あの子に手を出した、全てを。——殺すまで止まらない」
誰も止めなかった。止められなかった。
この王がこう決めた時。それを覆せるものが、この世にないことを。皆、知っていた。ミカだけが止められた。そのミカが、今眠っている。目を覚まさない。——ならば、もう誰も。
シュンカはベッドを見下ろした。眠るミカを。
そして——初めてその行為に手をかけた。
ずっと、やりたくなかったこと。最後まで避けてきたこと。——寄心を動かす。
ミカから外す。
彼は知っていた。寄心をミカから外すことが、何を意味するかを。
それは認めることだった。ミカを置いていくことを。
ミカが——このまま死ぬかもしれないことを。傍にいて、守ることを諦めることを。動かないでいれば、ミカはまだ繋がっていた。その繋がりを、今自分の手で断つ。国を滅ぼしに行くために。ミカの傍を離れるために。
だから、最後までやりたくなかった。移せばそれは、祈りを手放すことだったから。
シュンカの指が、ミカの胸の上で、止まった。
「……ごめん」彼は呟いた。眠る少女に。
「少しだけ、離れる。……でも、すぐ戻るから」
それが、嘘かもしれないことを、彼自身、分かっていた。
彼は顔を上げた。エディを見た。
「エディ」彼は言った。「お前に預ける」
エディの眉が、微かに動いた。
「寄心を」シュンカは、続けた。「僕の予備の心臓。……信頼する者にしか宿せない。ずっとミカだけだった。ミカにしか預けられなかった。——でも」
彼の赤い目が、揺れた。ほんの僅かに。滲むように。
「今なら。……お前にも、預けられる」
病室が、静まった。
そして、シュンカは続けた。淡々と。まるで、自分に言い聞かせるように。
「それに。……お前が一番死なない」
その一言に飾りはなかった。ただの事実だった。
——エディは、僭帝で、最強の幹部。
純破壊力において並ぶ者はいない。国を滅ぼす、その戦火の、ただ中でも。
まず倒れない。寄心はシュンカの、命綱。決壊する間、絶対に失うわけにはいかない。ならば、死なない器に託すしかない。信頼できてなおかつ最強。
——その条件を、満たすのは、エディだけだった。
「だから、とりあえず。……お前に」
シュンカの目に、光るものがあった。感情のないはずの王の、
その目に。——それは、エディへの信頼ゆえか。ミカを手放す絶望ゆえか。あるいは、その両方か。空っぽの器の奥底から、滲み出した名前のない何か。
「移したく、なかった」彼は言った。掠れた声で。
「最後まで……ミカから外したくなかった。でも」
彼の指先から温もりが抜けていく。ミカの胸から離れ——エディへと渡っていく。命綱が。信頼の証が。
エディは。
その、王の目の滲みを見ていた。
覇王。純破壊力、最強の男。あらゆるものを、打算で測ってきた男。
この王に、最初は打算で近づいた男。——その男が今。言葉を失っていた。
王が泣いている。感情のないはずのこの王が。ミカを置いて、国を滅ぼしに行く、その絶望に。そして——その絶望の底で。自分に命を預けている。ミカの次に
信頼の証として
エディの喉が微かに鳴った。何か言おうとして、言葉にならなかった。
彼は、一度目を閉じた。そして開いた。
——いつもの、ドライな男に戻って。だが、その奥に確かな熱を灯して。
「……とりあえず、か」
彼は言った。掠れかけた声を誤魔化すように。
「色気のねえ奴だ。……こんな時にまで」
だが、その口元は、微かに歪んでいた。笑おうとして、笑いきれない、何かに。
「——預かった」エディは、言った。今度は、まっすぐに。
「お前の心臓。……死なせやしねえ。俺も。お前も。ミカも。……全部な」
王が動く。ならば僭帝も、動く。
病室に、幹部たちが集った。それぞれの覚悟を、抱いて。
「露払いは、オレがやる」声が、した。イズナだった。出張から、戻ったばかり。報せを道中で聞いたのだろう。その身に既に陽炎を揺らめかせて。
「……まったく。めんどくせぇ。国ごと焼けってか」悪態をつきながら。だが、その目は既に、戦場を見ていた。「王の行く道だ。塵一つ、残さねえ」
「ならば、我が供を」アル・カイドが恍惚と進み出た。ついに、この日が来た。神罰の日が。
「王の御前を。このアル・カイドが。清めさせて、いただきます。
——爆ぜて。蘇り。何度でも。あなたの道を開くために」
露払いはこの二人。そして、王の傍には寄心を預かったエディ。三キロと離れられぬ、命綱の番人として。
残る、幹部たちは。
病室に残った。眠るミカの傍に。
「ミカ様は」セイレーンが、言った。その声にもう震えはなかった。
二度、守れなかった女の声に。今は、鋼のような決意が、あった。
「我らが、お守りします。命に代えても。——二度と誰にも。指一本触れさせません」
赫飛が無言で頷いた。伝説の殺し屋の影が、病室を覆っていく。鉄壁の、闇。チェインが、拳を鳴らした。政府への義憤を、今ミカを守る力に変えて。蔦漆が、静かに采配を始めた。守りの陣を。
シュンカは、その幹部たちを見た。ミカを託せる家族を。
「……お願い」彼は短く言った。
それだけで通じた。幹部たちは頭を垂れた。王のたった一つの大切なものを。
守り抜くと。無言で誓って。
シュンカは、病室を出た。
振り返らなかった。振り返れば、動けなくなる。眠るミカを置いて、彼は、歩き出した。エディが続く。イズナが、アル・カイドが続く。
城の、大扉が開いた。
外には夜が広がっていた。そしてその闇の中に——二十万の気配が蠢いていた。王の決壊を察して、集った僭帝の全軍が。
シュンカはその闇の中へ、一歩踏み出した。
動かなかった王が今動き出す。
祈りを手放して。ミカを家族に託して。この世でたった一つの大切なものを傷つけた——国家を滅ぼすために。
夜が揺れた。
嵐が始まる。