夜明け編 第16話「世界最強」
正しさは、正しいだけでは届かない。
——それが届くには、心の扉が要る。
絶望の空に、再び希望の光が差し始めていた。
もっとも——それを希望と呼べる者がこの場にいたかどうかは分からない。
新宿。二十四時間の猶予で人の消えた都心。もぬけの殻の高層ビル群が墓標のように立ち並んでいた。ネオンは死に、雑踏は絶え、あれほど昼夜を問わず騒がしかった街から、生きた気配のすべてが拭い去られている。
二十四時間の期限——それは、身柄を差し出す猶予であると同時に、無関係な者は逃げておけという、僭帝からの合図でもあった。人々はその意味を正しく汲んで都心から、潮のように引いていった。
その静まり返った街の中心に。シュンカは立っていた。
傍らにエディ。露払いのイズナと、アル・カイドを従えて。二十万の一部は
リ・デストロの指揮のもと、大阪と名古屋に潜伏している。この国は、丸ごと、王の掌の上にあった。逆らえば東京だけでは済まない。それを誰もが理解していた。
破壊の号令が今にも下ろうとする。その直前。
シュンカの前に、一人の女が降り立った。
金色の髪。星条旗を思わせる意匠。二本の角のように跳ねた前髪。——その立ち姿には、シュンカがこれまで相対してきた、どのヒーローとも違う、圧倒的な存在感があった。空気が、彼女を中心に張り詰めるようだった。
「……ボス」エディが、低く囁いた。その声に珍しく緊張が滲んでいた。
「気をつけろあれは——スター・アンド・ストライプ。アメリカのNo.1ヒーローだ。……今、この世界で最強と言われてる女さ」
世界最強。
シュンカはその女を見た。——だがその言葉に、彼の心は何も動かなかった。
強かろうが弱かろうが、関係ない。この世で彼の心を動かすものは、たった一つしかない。そして、それはこの女ではない。ミカではないのだから。
「……あなたは」シュンカが、警戒も露わに問うた。
「ヒーローだよね。僕を止めに来たの? それとも倒しに?」
周囲に緊張が走った。幹部たちも世界最強の来訪に身構える。
イズナの身に陽炎が揺らめき、アル・カイドが恍惚と舌なめずりをした。
——世界最強のヒーローを、王が屠るところが見られるかもしれない。そんな、狂った期待すらその目には宿っていた。一触即発の空気。
だが。
スターアンドストライプは、拳を構えなかった。
彼女は、ただ、シュンカを見つめていた。
その瞳に宿っていたのは、戦意でも敵意でもなかった。
——深い悲しみだった。
「……ボーイ」彼女は、静かに口を開いた。その声は世界最強のヒーローとは思えぬほど優しく、そして哀しげだった。
「何故こんなことになっちまったんだい」
シュンカの動きが止まった。
彼は身構えていた。罵倒を。あるいは正義の説教を。あるいは力ずくの制圧を。——これまで彼の前に立ったヒーローは皆そのどれかだった。恐れ、憎み、同情し
正義を振りかざして、彼を「倒すべきもの」として見た。
けれど。この女が最初に向けてきたのはそのどれでもなかった。
ただ、一人の子供を案じる悲しみだった。
「ボーイ。あんた、まだ十一の子供だろう?」
スターアンドストライプは、悲しそうに、眉を寄せた。
「なのに、一国を破壊しようとしてる。……十歳でAFOを殺して。
世界を震え上がらせて。——そんな途方もない重荷をそんな小さな肩に背負って。あんた、どんな気持ちでここまで来ちまったんだい」
彼女はゆっくりと歩み寄った。一歩、また一歩。その足取りに攻撃の意思は
微塵もなかった。武器を持たぬ者が怯える獣に近づくときのような、静かな慎重な歩み。
「あたしはね。あんたと戦いに来たんじゃない。殺しに来たんでもないよ」
彼女は言った。「ただ話をしに来たんだ。——どうしてあんたがこんな道を歩むことになったのか。それを知りたくて海を越えてきた」
シュンカは、しばらく黙っていた。
世界最強のヒーローが、拳ではなく悲しみを向けてくる。
その意外さに彼の凍てついた無のまなざしが、ほんの少し揺らいだ。
——この女は他の連中とは、少し違う。そう、感じさせる何かがあった。
「……なんでって」
彼はぽつりと答えた。
「簡単だよ。傷つけたからだ、この国が。何度も何度も、ミカを殺そうとして
とうとう本当に撃った。血を流させた。——僕は言ったんだ、手を出すなって、次はないって。……なのにやった。だから約束を守るだけ」
彼の声は淡々としていた。感情の色の乏しい平坦な声。けれどその奥に隠しきれぬ何かが滲んでいた。怒りとも悲しみともつかぬ、名前のない何かが。
「僕はべつに世界なんてどうでもよかった」彼は続けた。
「国を壊したいとも思ってなかった。ただミカが安全で笑っててくれれば。
それでよかったんだ。——なのに。みんながミカを狙うから。だからこうなった」
彼はスターを見た。その赤い目に初めて微かな色が差した。理不尽を訴える
幼い子供の色が。
「……僕のせいじゃない」
その一言は。
静まり返った新宿に、落ちた。
僕のせいじゃない。——それは破壊の王の宣言ではなかった。世界を滅ぼす者の、傲慢でもなかった。ただ理不尽に大切なものを奪われかけた、一人の子供の
行き場のない、切実な訴えだった。
スターはその言葉を聞いた。
そして——彼女の胸に悲しみがいっそう深く広がった。
ああこの子は。本当にただの子供だ。何も悪くない。何も間違っていない。
——ただ、大切なものを守りたかった。それだけの子供が。今世界を壊そうとしている。世界の方がこの子をそこまで追い詰めたのだ。
「……そうかい」彼女は呟いた
「そうだよな。……あんたの、せいじゃないよな」
シュンカが彼女を見た。
その言葉を彼は予想していなかった。責められると思っていた。止めろと言われると。世界を壊す化け物として糾弾されると。
——なのにこの女は僕のせいじゃないと。そう言った。まるで彼の側に立つように。
新宿に風が吹いた。もぬけの殻の街を抜けて。摩天楼の谷間を乾いた音を立てて通り過ぎていく。
二人は束の間見つめ合っていた。破壊の王と世界最強のヒーローが。戦うでもなく、ただ静かに。——まるで互いの中に言葉を探すように。
まだ、号令は下されていなかった。