第九話「約束」
寂しさから生まれた王は、寂しさで主を守ろうとした。 ——だが、主の寂しさを終わらせたのは。 遠ざけることではなく、隣にいることだった。 それを成したのは自分ではない別の誰かだった。
僕は燃え盛る地獄の中をミカのほうへ歩いていた。
その背を、ミカが障壁の中から見ていた。炎の中を傷一つ負わず煤一つ付けず
ただ自分一人を取り返すために死を恐れず痛みを恐れず、終末を踏み越えてくる——その姿を。
彼女の頬を熱いものが伝った。
それはいつもの痛みとは違っていた。寂しさでも、猜疑でも恐れでもなかった。
ああ、とミカは思ったらしい。後で彼女はそう言った。
——私この子のことが、好きだ。
ずっと一人だった。親に捨てられ化け物と呼ばれ、誰にも望まれず、
寂しさで死にそうで、怪物ばかりが膨れていった。でもこの子だけは違った。
この子だけが私を傷つけなかった。この子だけが私の全部を見ても逃げなかった。
もう離したくないずっと一緒にいたい。この子と。
その想いが胸を満たした瞬間、彼女の中で何かが決定的に裏返った。
そのとき、ナメレスが咆哮した。
「消えろッ。消えろ。消えろッ」
寂しさの王が叫んでいた。主に近づく僕を消そうと、何度も剣を振るう。けれどそれはもう攻撃ですらなかった。己の存在意義が崩れていくことへの、怪物の悲鳴だった。
主が寂しくなくなることは、寂しさの王にとって己の消滅に等しい。
剣は何度振るっても僕に届かなかった。砕けるのはいつも剣のほうだった。
ミカは涙を拭わなかった。
ただゆっくりと立ち上がり、己の一番深い傷を見上げて静かに言い放った。
「消えるのは——お前だ、ナメレス」
夜の王の言葉だった。
もう寂しくないもう一人じゃない。だから、お前は——要らない。
ナメレスの剣が空中で止まった。
騎士は少女を見下ろした。涙を流すミカを、もう寂しくないと言ったミカを。一人じゃないと言ったミカを。
——ああ、そうか、と王は悟ったようだった。
その双眸から戦意が抜けていった。
僕はその隙にミカの前まで歩いて足を止めた。地獄を歩いても傷一つ負わぬまま、涙に濡れた頬のミカと向かい合った。炎はまだ周りで燃えていた。
グラディウスの業火が山を焼いていた。それでも、僕とミカのあいだだけは奇妙に静かだった。
僕はナメレスのほうへ向き直った。
怒りはなかった義憤もなかった。ただ、ミカと僕のあいだに在るものを退ける。それだけの淡々とした意思だった。
軽く手を振った。
止めた空気が放たれる。真空の破断が音すら置き去りにしてナメレスへと奔った。
最強の夜の王は、たった一撃で砕けた。
甲冑が割れ、王冠が砕け、漆黒の巨体が崩れていく。来たときと同じ夜の中へ、少しずつ溶けるように消滅していく。
その崩れていく体で、ナメレスは僕を見た。
もう戦意はなかった。憎しみもなかった。漆黒の双眸が、消える間際に僕をまっすぐ見つめていた。
そして、低く、掠れた声で言った。
「……お前には、できたのだな」
崩れていく巨体から、力が抜けていく。
「我に、できなかったことが」
それきり、王は多くを語らなかった。孤独で守ろうとして、孤独で蝕んでいた——その悔いも、過ちも、言葉にはしなかった。ただ、漆黒の双眸が、最後にほんの少しだけ和らいだように見えた。
漆黒の甲冑が、夜に溶けていく。
「——あの子を、頼む」
その一言を残して、最強の夜の王は夜の中へ還っていった。
立ち込めていた終末の闇が退いていく。山頂を覆っていた劫火が鎮まっていく。グラディウスも、いつの間にか裂け目の奥へと還っていた。
残ったのは焼け焦げた山の頂と、涙を流す少女と、傷一つ負わぬ僕だけだった。
夏の夜が白み始めていた。
ミカが掠れた声で僕に問うた。
「……なんで。なんで、来たの」
誰にも望まれたことのない少女だった、誰にも来てもらえたことのない少女だった。だからわからなかったのだろう。なぜ僕が死を恐れず地獄を踏み越えて、自分のために来たのか。
僕は少し考えた。
自分でも不思議だった。でも、確かめるように言った。
「僕が望んだんだ」
生まれて初めて口にする言葉だった。生存のためだけに生きてきた。何も望まず、何も求めず、空っぽのまま流されてきた。その器にたった一つ芽生えた意思。
「ミカの傍にいたいって、——僕がそう望んだ。だから来た。それだけ」
淡々としていた。英雄的でも情熱的でもなかった。ただ事実を述べるように。けれどそれは、空っぽだった僕が生まれて初めて手にした“自分の望み”だった。
ミカの瞳から涙が溢れた。
「だから」。僕は少し屈んでミカと目線を合わせた。
「僕がずっと一緒にいてあげるから」
約束だった。
寂しくないように。一人にしないように。お前を傷つけないように。僕がずっと傍にいる。——それは、ミカが生まれてからずっと欲しくて、けれど一度ももらえなかったたった一つの言葉だった。
ミカは返事をしなかった。できなかった。
ただ声を上げて泣いた。子供のように——いや、初めて子供に戻れたかのようにぼろぼろと涙を零し
何度も何度も頷いた。
空っぽの僕が一つの望みを見つけ。
溢れすぎたミカが一つの居場所を見つけた。
壊れ方の違う二つの器が焼け跡の山頂で静かに寄り添っていた。
白み始めた夏の空の下を、長い夜が明けていく。
昨夜の祭りのことも、山を焼いた地獄のことも、世界はきっとまるで違う形で語るのだろう。けれど、本当に何が起きたのかを知っているのは、僕とミカ、二人だけだった。
その秘密を抱えて、僕たちは山を下りていった。