空っぽの王様のひとつだけ   作:カルキよし

9 / 32
第9話「約束」

第九話「約束」

寂しさから生まれた王は、寂しさで主を守ろうとした。 ——だが、主の寂しさを終わらせたのは。 遠ざけることではなく、隣にいることだった。 それを成したのは自分ではない別の誰かだった。

 

僕は燃え盛る地獄の中をミカのほうへ歩いていた。

 その背を、ミカが障壁の中から見ていた。炎の中を傷一つ負わず煤一つ付けず

ただ自分一人を取り返すために死を恐れず痛みを恐れず、終末を踏み越えてくる——その姿を。

 

 彼女の頬を熱いものが伝った。

 それはいつもの痛みとは違っていた。寂しさでも、猜疑でも恐れでもなかった。

 ああ、とミカは思ったらしい。後で彼女はそう言った。

 

 ——私この子のことが、好きだ。

 

ずっと一人だった。親に捨てられ化け物と呼ばれ、誰にも望まれず、

寂しさで死にそうで、怪物ばかりが膨れていった。でもこの子だけは違った。

この子だけが私を傷つけなかった。この子だけが私の全部を見ても逃げなかった。

 

 もう離したくないずっと一緒にいたい。この子と。

 その想いが胸を満たした瞬間、彼女の中で何かが決定的に裏返った。

 そのとき、ナメレスが咆哮した。

 

「消えろッ。消えろ。消えろッ」

 

 寂しさの王が叫んでいた。主に近づく僕を消そうと、何度も剣を振るう。けれどそれはもう攻撃ですらなかった。己の存在意義が崩れていくことへの、怪物の悲鳴だった。

 

 主が寂しくなくなることは、寂しさの王にとって己の消滅に等しい。

 剣は何度振るっても僕に届かなかった。砕けるのはいつも剣のほうだった。

 ミカは涙を拭わなかった。

 

 ただゆっくりと立ち上がり、己の一番深い傷を見上げて静かに言い放った。

 

「消えるのは——お前だ、ナメレス」

 

 夜の王の言葉だった。

 もう寂しくないもう一人じゃない。だから、お前は——要らない。

 ナメレスの剣が空中で止まった。

 

 騎士は少女を見下ろした。涙を流すミカを、もう寂しくないと言ったミカを。一人じゃないと言ったミカを。

 

 ——ああ、そうか、と王は悟ったようだった。

 

 その双眸から戦意が抜けていった。

 僕はその隙にミカの前まで歩いて足を止めた。地獄を歩いても傷一つ負わぬまま、涙に濡れた頬のミカと向かい合った。炎はまだ周りで燃えていた。

グラディウスの業火が山を焼いていた。それでも、僕とミカのあいだだけは奇妙に静かだった。

 

 僕はナメレスのほうへ向き直った。

 怒りはなかった義憤もなかった。ただ、ミカと僕のあいだに在るものを退ける。それだけの淡々とした意思だった。

 

 軽く手を振った。

 止めた空気が放たれる。真空の破断が音すら置き去りにしてナメレスへと奔った。

 

 最強の夜の王は、たった一撃で砕けた。

 

 甲冑が割れ、王冠が砕け、漆黒の巨体が崩れていく。来たときと同じ夜の中へ、少しずつ溶けるように消滅していく。

 

 その崩れていく体で、ナメレスは僕を見た。

 

 もう戦意はなかった。憎しみもなかった。漆黒の双眸が、消える間際に僕をまっすぐ見つめていた。

 

 そして、低く、掠れた声で言った。

 

「……お前には、できたのだな」

 

 崩れていく巨体から、力が抜けていく。

 

「我に、できなかったことが」

 

 それきり、王は多くを語らなかった。孤独で守ろうとして、孤独で蝕んでいた——その悔いも、過ちも、言葉にはしなかった。ただ、漆黒の双眸が、最後にほんの少しだけ和らいだように見えた。

 

 漆黒の甲冑が、夜に溶けていく。

 

「——あの子を、頼む」

 

 その一言を残して、最強の夜の王は夜の中へ還っていった。

 

 立ち込めていた終末の闇が退いていく。山頂を覆っていた劫火が鎮まっていく。グラディウスも、いつの間にか裂け目の奥へと還っていた。

 

 残ったのは焼け焦げた山の頂と、涙を流す少女と、傷一つ負わぬ僕だけだった。

 夏の夜が白み始めていた。

 ミカが掠れた声で僕に問うた。

 

「……なんで。なんで、来たの」

 

 誰にも望まれたことのない少女だった、誰にも来てもらえたことのない少女だった。だからわからなかったのだろう。なぜ僕が死を恐れず地獄を踏み越えて、自分のために来たのか。

 

 僕は少し考えた。

 自分でも不思議だった。でも、確かめるように言った。

 

「僕が望んだんだ」

 

 生まれて初めて口にする言葉だった。生存のためだけに生きてきた。何も望まず、何も求めず、空っぽのまま流されてきた。その器にたった一つ芽生えた意思。

 

「ミカの傍にいたいって、——僕がそう望んだ。だから来た。それだけ」

 

 淡々としていた。英雄的でも情熱的でもなかった。ただ事実を述べるように。けれどそれは、空っぽだった僕が生まれて初めて手にした“自分の望み”だった。

 ミカの瞳から涙が溢れた。

 

「だから」。僕は少し屈んでミカと目線を合わせた。

 

「僕がずっと一緒にいてあげるから」

 

 約束だった。

 寂しくないように。一人にしないように。お前を傷つけないように。僕がずっと傍にいる。——それは、ミカが生まれてからずっと欲しくて、けれど一度ももらえなかったたった一つの言葉だった。

 

 ミカは返事をしなかった。できなかった。

 ただ声を上げて泣いた。子供のように——いや、初めて子供に戻れたかのようにぼろぼろと涙を零し

何度も何度も頷いた。

 

 空っぽの僕が一つの望みを見つけ。

 

 溢れすぎたミカが一つの居場所を見つけた。

 

 壊れ方の違う二つの器が焼け跡の山頂で静かに寄り添っていた。

 

 白み始めた夏の空の下を、長い夜が明けていく。

 昨夜の祭りのことも、山を焼いた地獄のことも、世界はきっとまるで違う形で語るのだろう。けれど、本当に何が起きたのかを知っているのは、僕とミカ、二人だけだった。

 その秘密を抱えて、僕たちは山を下りていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。