夜明け編 第17話「我慢」
誰も見ていなかった。この子がどれだけ耐えてきたかを。
——たった一人。海を越えてきた女を除いて。
スターアンドストライプは膝を折った。
世界最強のヒーローが破壊の王の前で腰を落とす。目線を幼い子供の高さに合わせるために。無防備な姿だった。その気になればシュンカはこの一瞬で彼女を両断できる。それを承知の上で、彼女は膝をついた。武器ではなく言葉で向き合うと、その姿で示すように。
そして静かに語り始めた。
「ボーイ、お前のことをずっと見てきた。ニュースや報告で。世界中が”化け物"だ、"災厄"だって呼んでた」彼女は言った。
「でもね。私はやってきたことを一つ一つ見て——思ったんだ。この子はとんでもなく我慢強い子だってね」
シュンカが怪訝そうに彼女を見る。我慢強い、その言葉の意味を彼はうまく掴めなかった。
「だってそうだろう?」スターアンドストライプは続けた。「圧倒的な力を持ってる。その気になれば最初から世界ぜんぶをねじ伏せられた。誰も逆らえやしない。気に入らない奴は全部塵にすればいい。——なのにボーイは、そうしなかった」
彼女は指を折りながら一つ一つ挙げていった。まるで誰も数えてこなかったものを、代わりに数えるように。
「最初にミカちゃんが狙撃された時。世界を焼き尽くせた。でもしなかった。警告だけで済ませた」
一本。
「公安のトップを本当なら皆殺しにできた。でも要求を下げた。殺すなって。法で裁くだけでいいって」
二本。
「自分から攻めることもしなかった。ずっと守りに徹してた。挑発されても罵られても、指一本余計には動かさなかった」
三本。
彼女の瞳が一層哀しげになった。
「何度も譲歩してきた。圧倒的な力を持ってるくせに。全部力ずくで解決できるくせに。——それをしなかった。そんな途方もない我慢を、ボーイはたった十歳でやってのけたんだ」
シュンカは言葉を失っていた。
我慢。譲歩。——そんな言葉で自分のしてきたことを呼ばれたのは初めてだった。彼自身それを我慢だとは思っていなかった。ただミカと静かに暮らしたかった。そのために波風を立てたくなかった。それだけのつもりだった。
——けれどこの女はそれを「途方もない我慢」と呼んだ。世界を焼く力を持ちながら焼かずに堪えた、その一つ一つを。数えていた。
「十歳の子供が世界を相手に、それだけ譲って、それだけ我慢して、誰も死なせまいと歯を食いしばってきた」
スター・アンド・ストライプの声は震えていた。
「なのに——その返事がこれだ。たった一人の大切な子を撃って血を流させた。あれだけ譲ってやった相手に。最後の最後で一番やっちゃいけないことをされた」
彼女はまっすぐにシュンカを見つめた。涙を堪えるように。
「——だったら。怒るのも無理はないさ」
シュンカの赤い瞳が大きく揺れた。
「十分すぎるほど我慢した。十分すぎるほど優しかった。それでも裏切られた。大切なものを傷つけられた。——そりゃあ怒るよ。当たり前だ。私がボーイの立場でも、きっと同じくらい怒っただろうさ」
彼女は言った。一語一語を確かめるように。
「その怒りは間違ってない。正当だ。それだけは私が認める。世界中がお前を責めても。私は、その怒りだけは否定しない」
シュンカは呆然と彼女を見ていた。
彼はこれまでずっと"化け物"と呼ばれてきた。"災厄"と恐れられてきた。誰もが彼を倒すべき悪として見た。恐怖の対象として。排除すべき脅威として。——誰一人、彼の我慢を、彼の譲歩を、彼の痛みを見ようとはしなかった。見えていなかった。見ようともしなかった。
なのに。
この海の向こうから来た女は。彼のすべてを見ていた。彼がどれだけ耐え、どれだけ譲り、どれだけ傷ついたのかを。一つ残らず。そしてそれを否定せず、責めもせず、ただ「怒るのも無理はない」と、彼の痛みをまるごと受け止めた。
生まれて初めてだった。誰かに本当に"見られている"と感じたのは。ミカ以外の誰かに。
その事実が彼の凍てついた胸の、ずっと奥の方を静かに揺らした。氷の一枚がほんの少しだけ軋むように。
「……なんで」シュンカの声が掠れた。
「なんであなたはそんなふうに言うの。みんな僕のことを怖がって、憎んでるのに。あなたは僕を止めに来たはずなのに。——なんで僕の味方みたいなことを言うの」
スターアンドストライプは優しく笑った。哀しみを湛えた、けれど温かい笑みだった。
「言ったろう。私はボーイと対話をしに来たんだ。一方的に責めたり、ねじ伏せたりするためじゃない。——まずは痛みをちゃんと認める。話はそこからだ。ボーイ」
何も望まなかった王の凍てついた心に。世界最強のヒーローのまっすぐな理解が、静かに、けれど確かに届き始めていた。剣を交えることなく。ただ一人の子供として彼を見つめる、そのまなざしによって。
——だが彼女はまだ、肝心なことを言っていなかった。
理解は始まりに過ぎない。その先に、彼女がどうしても伝えなければならない願いがあった。この子の怒りを認めた、その上で。それでも止めなければならない理由が。
新宿の空に、崩れかけた夕日が赤く滲んでいた。