夜明け編 第18話「やめてくれ」
正しさが、破壊を赦してしまうことがある。
傷つけたくない者と戦わねばならないことも。
スターアンドストライプは立ち上がった。
そして——頭を下げた。
世界最強のヒーローが破壊の王に、深く深く頭を垂れた。星条旗を思わせる金色の髪が、崩れかけた夕日に揺れる。その姿に傲りは微塵もなかった。
強者が弱者を諭す高みも、正義が悪を裁く硬さもない。ただ一人の人間がもう一人の人間に、頼み込む姿だった。
「頼む」彼女は言った。「ボーイ。お前の怒りは正しい、それはさっき言った通りだ撤回もしない。——でも、それでも破壊だけはやめてくれ」
シュンカは黙ってその姿を見ていた。頭を下げられることに慣れていない。
跪かれ、敬われることには慣れていた。だがこんなふうに、対等な一人の人間として頼まれることはなかった。だからどう反応していいのか分からなかった。
「この街には」スターは頭を下げたまま続けた。
「お前の怒りとは何の関係もない人たちがいる。逃げ遅れた老人。動けない病人。生まれたばかりの赤ん坊。……それに、この国そのものを壊せば、一億の人間の暮らしが崩れる。電気も、水も、薬も止まる。お前が直接手を下さなくても、たくさんの無関係な人間が死ぬんだ」
彼女は顔を上げた。その目は真剣でそして必死だった。
「その人たちは、お前を撃ってなんかいない。憎んでもいない。ただそこで生きてるだけだ。——頼む。その人たちだけは巻き込まないでくれ。ボーイ」
シュンカはしばらく、彼女を見ていた。
そして——ぽつりと言った。
「……知ってるよ」
スターの息が、止まった。
「そんなの分かってる。国を壊せばたくさん死ぬ。関係ない人も。……知ってるよ、そんなこと」
シュンカの声は平坦だった。感情の抜け落ちた乾いた声。
「でも、どうでもいい」
「……ボーイ」
「だって、ミカじゃないもん」
彼はそう言った。まるで水が低い方へ流れるように、当たり前のことのように。
「その人たちはミカじゃない。僕の大事な人じゃない。だからどうなってもいい。老人も赤ん坊も、一億の人も。……全部僕には関係ない」
スターアンドストライプは言葉を失った。
彼女は覚悟してきた。憎悪を。狂気を。あるいは力への陶酔を。
——そのどれかなら、まだ対処のしようがあった。憎しみなら、時間をかけて解けるかもしれない。狂気なら、正気に引き戻せるかもしれない。力に酔っているなら、その先の虚しさを教えられたかもしれない。
だが、これは違った。
この子は、憎んでいるのでも、狂っているのでも、酔っているのでもない。
——ただ投げやりになっている。世界そのものへの興味を、根こそぎ失っている。
たった一つの大切なものを傷つけられて、それ以外の何もかもが、どうでもよくなっている。
憎しみは裏を返せば、まだ世界と繋がっている証だ。だがこの子のこれは違う。断絶だ。世界との糸が切れかけている。
——この子は壊れているのだ。心が。
「……そうかい」スターは掠れた声で呟いた。
「お前はもう。……どうでもよくなっちまったんだな」
シュンカは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「なあ、ボーイ」スターは静かに問うた。
もう正論では届かないと悟りながら。それでもこの子の心のいちばん奥に触れたくて
「教えてくれ。……なんで、そこまでになっちまったんだ。何がお前をそこまで追い詰めた」
シュンカはしばらく、黙っていた。
そして——ゆっくりと口を開いた。
誰かに自分のことを話すなんて、初めてだった。ミカにさえ心の裡を言葉にしたことはなかった。言葉にする必要がなかったから。だから彼の言葉は、たどたどしく途切れがちだった。うまく話す術を彼は知らなかった。
「……僕はね」
彼は俯いた。
「ずっと我慢してた。……たぶんこれが我慢っていうんだって、今あなたに言われて、初めて分かったんだけど」
彼の指が、微かに握られた。
「何も要らなかったんだほんとに。世界も、力も、王様の座も、どうでもよかった。……ただ、ミカといられれば。それでよかったんだ。だから譲った。何度も。手を出すなってそれだけ言って、あとは全部我慢した。怒りたいときも堪えた。
全部ミカと静かに暮らすためなら、それでいいと思ってた」
彼の声が少しずつ震え始めた。感情をうまく制御できないように。
「なのに……最後にいちばん大事なものを、傷つけられた。あんなに譲ったのに。あんなに我慢したのに。——ミカを撃った。血を流させた。ミカが、僕の腕の中で倒れた」
彼は顔を上げた。その赤い目に諦めとそして静かな確信が宿っていた。
「だからねもういいやって思った。こんな世界、壊れちゃえばいいって。……ミカが傷つく世界なんて守る意味ないよ。何も」
そして、彼はスターを、まっすぐに見た。
生まれて初めて他人を見た。ミカ以外の誰かを。その視線に、スターは貫かれたように動けなくなった。
「僕は何も間違ってない」
きっぱりと彼は言った。迷いなく。
「何も求めなかった。ずっと譲った。我慢した。手を出すなってそれだけ言って、あとは全部堪えた。……悪いのは向こうだ。約束を破ってミカを撃った向こうだ。何度も詫びるふりをして、また撃った向こうだ。——僕は悪くない」
その言葉は事実だった。誰にも否定できない剥き出しの事実だった。
「……なのに、なんで」
彼の声が微かに震えた。
「なんで、僕が我慢しなきゃいけないの? 悪くないのに。まだ譲れって言うの?
もっと我慢しろって。……悪いのは向こうなのに。なんで僕ばっかり」
その問いは挑発ではなかった。居直りでもなかった。本気で、分からないから訊いていた。善悪の物差しを持たない子供がそれを持っているはずの大人に、生まれて初めて確かめようとしていた。自分の結論が正しいのか。間違っているのか。それすら、彼には判断できなかったから。
「……何かおかしいかな。僕」
スターアンドストライプは。
答えられなかった。
口を開いた何か言おうとした。だが言葉が出てこなかった。 喉の奥で言葉がつかえて動かなかった。
彼女には分かっていた。この子は悪くない。それは事実だ。何も求めず譲り続け我慢した。踏み越えたのは向こうだ。——だから「お前が悪い」とは言えない。
言えるはずが、ない。
かといって「お前は正しい、壊していい」とも言えない。それを言えば
一億の民が死ぬ。守るべき人々が、死ぬ。
悪くない。けれど壊してはならない。
——その二つは、本来両立するはずだった。
悪くない者がそれでも他者を巻き込まずに留まる。それが道理のはずだった。だがこの子の中ではまっすぐに繋がってしまっている。悪くないのだから、我慢する理由もない、と。踏み越えたのは向こうなのだから、報いを受けて当然だと。
その痛いほどまっすぐな論理を。崩す言葉を彼女は持っていなかった。
世界最強のヒーローが。十一歳の子供の、たった一つの問いの前で。ただ立ち尽くしていた。
新宿の空に、最後の夕日が沈もうとしていた。街の影が、二人を静かに飲み込んでいく。
——答えは、どこからも、返ってこなかった。
沈黙が、どれほど続いただろう。
やがて、口を開いたのはシュンカの方だった。
「……でも」
スターが顔を上げる。
シュンカは彼女を見ていた。世界のすべてを「どうでもいい」と切り捨てた、
その同じ目で。けれどその目に宿る色は
「あなたのことは殺したくない」
スターアンドストライプの、目が、見開かれた。
「あなたは……」。シュンカは、たどたどしく言葉を探した。「僕を、悪くないって言ってくれた。初めてなんだ。そんなこと言ってくれた大人。……みんな、僕を怖がって、化け物だって、道具だって、王様だって。誰も、僕を、僕として見なかった。でも、あなたは違った」
彼は、俯いた。自分でも、この感情の名前を知らないように。
「だから。……あなたは、殺したくない。あなたとは、戦いたくない」
その言葉に、スターの胸が締めつけられた。世界を壊すと言った子が。何もかもどうでもいいと言った子が。ただ一人、自分の痛みを見てくれた大人にだけ、こんな不器用な優しさを、向けている。
*
「だから、提案なんだ」。シュンカは続けた。「あなたは、逃げ遅れた人を逃がすことに徹して。市民を、助けることに。……それは、ヒーローの仕事なんでしょ。それなら、あなたは正しいことをできる。僕とも、戦わなくて済む」
彼は、スターを見た。すがるようにも見える、それは精一杯の配慮だった。
「僕が国を壊してる間に、あなたは、人を逃がして。……そうすれば、あなたを殺さなくて済む。お願いだよ。……それで、いてよ」
殺したくない相手に、殺さずに済む道を差し出す。それが、この幼い王の精一杯だった。
スター・アンド・ストライプは、しばらく、その申し出を噛みしめていた。そして——静かに、首を振った。
「……ありがとう、ボーイ」。彼女は、優しく、けれど揺るがずに言った。「お前が、私を殺したくないって思ってくれてること。他の連中とは違うって、認めてくれてること。……本当に、嬉しいよ。心から」
彼女は、一歩、前に出た。
「——でも。その提案は、受けられない」
*
シュンカの、眉が、微かに動いた。
「私は、ヒーローだ」。スターは言った。「市民を逃がすのも、確かに仕事だ。それは、やる。命がけで。一人でも多く逃がす。——でも、それだけじゃ済まないんだ」
彼女の瞳に、深い哀しみが、宿った。
「お前が、本当に日本を壊し始めたら。一億の命を奪おうとしたら。——私は、お前の前に立たなきゃならない。お前がそれでも進むなら、私は、戦わなきゃならないんだ。ヒーローとして。守るべき人々の、ために」
彼女は、拳を握りしめた。けれど、その声は震えていた。
「——でもね、ボーイ。私は、それが、嫌なんだ」
シュンカが、彼女を見る。
「お前と戦うなんて、本当は、一番やりたくない」。スター・アンド・ストライプは、絞り出すように言った。「お前は、被害者だ。ずっと我慢して、譲って、傷ついて、たった一つの願いすら奪われた子供だ。——そんなお前と、拳を交えるなんて。お前を傷つけるなんて。あるいは、私がお前に傷つけられるなんて。そんなことは、私が一番、望んじゃいない」
彼女は、シュンカを、まっすぐに見据えた。涙を、堪えながら。
「私は、お前を殺したくない。お前も、私を殺したくない。——なのに。お前が破壊を続ける限り、私たちは、戦わなきゃならなくなる。望んでもいないのに。お互い、手を上げたくもないのに。……こんな馬鹿げた話が、あるかい」
*
二人は、向かい合った。
殺したくない王と、戦いたくない英雄。互いに深い敬意を抱き、互いに傷つけたくないと願いながら。——それでも、一方が破壊を選び、一方が守ることを誓う限り。二人は、望まぬ衝突へと、否応なく引き寄せられていく。
「……ボーイ」。スター・アンド・ストライプは、最後に、問うように呟いた。「本当に、この道しかないのかい。誰も傷つけずに済む道は。私たちが、拳を交えずに済む道は。——どこにも、ないのかい」
シュンカは、答えなかった。
答えられなかった、のかもしれない。彼にも、もう分からなかった。ミカが傷つけられた、あの瞬間から。彼の中の何かが、決壊してしまっていた。止まる術を、彼自身、知らなかった。
夜が、新宿を、覆い始めていた。
破壊と守護。その狭間で、二つの望まぬ運命が、今、静かに交わろうとしていた。