夜明け編 第20話「行かなきゃ」
どんな力も届かなかった場所へ。
——たった一人傷ついた少女だけが向かおうとしていた。
地下深く。鉄壁の守りに囲まれた医務室。
柔らかな寝台の上でミカの睫毛が震えた。
そしてゆっくりとその瞳が開いた。
「……ん……」
最初に襲ってきたのは鈍い痛みだった。包帯の巻かれた肩。あの狙撃の傷。それが、彼女に少しずつ意識を取り戻させていく。天井のぼんやりとした光。消毒液の匂い。
——自分がどこかの医務室にいることを彼女は徐々に理解した。
その瞬間。
「ミカちゃん……!」
傍らから声が上がった。寝台の脇に控えていた赫飛が弾かれたように身を乗り出す。伝説の殺し屋の、その凄みも、今は影を潜め、ただ、隠しきれぬ安堵だけが、滲んでいた。「気がついた……! ああ、よかった……本当に……」
反対側からもセイレーンが素早く駆け寄った。ミカの世話係。二度、守れなかった女。その顔にも深い安堵の色があった。
「無事でよかったです。……本当に」
ミカはぼんやりとした意識の中で二人の顔を見た。
彼女はシュンカ以外の人間には、いつも冷たく素っ気ない。けれど、この僭帝の幹部たちが心の底から自分を案じていることは、痛いほど伝わってきた。
彼女は身を起こそうとして肩の痛みに顔をしかめた。セイレーンが慌てて支える。
「無理をなさらず……! まだ、安静に……」
だがミカの瞳はすでに痛みを超えて、何かを探していた。
彼女が最初に口にしたのは、自分の傷のことでも痛みのことでもなかった。
「……シュンカは」
掠れた声。けれどその一言に、彼女のすべてが込められていた。
「シュンカはどこ。わたしが眠ってる間に何があったの」
赫飛とセイレーンが、互いに顔を見合わせた。
その一瞬の沈黙がすべてを物語っていた。
ミカの鋭い直感が働く。彼女は気づいていた。何かがおかしい。空気が、張り詰めている。地の底にまで微かに届く、遠い地鳴りのような振動。そして何より——いつもなら傷ついた自分の傍を片時も離れないはずのシュンカが。ここにいない。
「……何かあったんだね」ミカの声が冷たく研ぎ澄まされていく。
「シュンカは今どこにいるの?何をしてるの?——隠さないで」
医務室の扉が開いた。
入ってきたのは蔦漆だった。僭帝の頭脳ミカの守りの采配を続けていた男。彼は、目覚めたミカを見て、一瞬言葉を失い、それから静かに声を発した
「……お目覚めになられましたか」
蔦漆は迷った。
シュンカからの命令は明確だった。ミカを安全な地の底に匿い、決して戦場には立たせるな。傷を癒すことだけを考えさせろ。
——それが、シュンカの願いだった。
だが目の前の姫の瞳は、すでにすべてを見透かそうとしていた。
そしてこの姫が、シュンカのことで一度動くと決めたら。誰にも止められないことを。彼らは誰よりよく知っていた。
蔦漆は静かに語り始めた。隠し通せる相手ではないと悟ったのだ。
ミカが狙撃されたこと。犯人が日本政府であったこと。それを知ったシュンカが激昂し、日本のすべてを破壊すると宣言したこと。
心臓をエディに預け、ミカを決して戦場に立たせまいとしたこと。
そして今——新宿で、世界最強のヒーローと激突を続けていること。
「すべてミカ様を守るためです」蔦漆は苦しげに言った。
「シュンカ様は、ミカ様が傷つけられたことが、許せなかった。だから……」
ミカは寝台の上でじっと俯いていた。
包帯の巻かれた肩。この傷がすべての引き金だった。自分が撃たれたことで
シュンカは世界を敵に回した。世界を壊そうとしている。
——シュンカ。
彼女には痛いほど分かった。シュンカの気持ちが。彼は世界がどうなろうと
本当はどうでもいいのだ。ただ自分が傷つけられたことだけが、許せない。
自分を守れなかったことだけが許せない。だから怒っている。だから壊している。
そして彼女には もう一つ 痛いほど分かることがあった。
——今のシュンカを止められるのは。世界中のヒーローを集めても、無理だ。世界最強のヒーローでも無理だ。
止められるのはたった一人。
自分。
ミカはゆっくりと顔を上げた。
その瞳から迷いが消えていた。
「……行かなきゃ」
彼女は寝台から足を下ろした。肩の痛みに、一瞬顔を歪めながらも立ち上がろうとする。
「ミカ様……!? まだ、お身体が……!」セイレーンが、慌てて支えようとする。
「行かなきゃいけないから、シュンカのところに」ミカは繰り返した。静かに。けれど誰にも揺るがせない、絶対の意志で。
「あの子を止められるのはわたしだけ。あの子があんなに苦しんでるのは、全部、わたしのため。ならわたしが行かなきゃいけないんだ」
赫飛がセイレーンが、蔦漆が互いに目を見交わした。
ミカの意志は固かった。
「行かなきゃ」と彼女は言った。傷ついた体で、それでも立ち上がろうとする。
その姿を見て幹部たちは、短い沈黙の後に判断を下した。
「……シュンカ様の命令は、『ミカ様を戦場に立たせるな』だった」蔦漆が低く言った。
「だが今の状況は、それを守るだけではどうにもならん」
彼は眼鏡の奥の目を細めた。僭帝の頭脳が冷徹にけれど確信を持って
結論を導き出す。
「シュンカ様を止められるのは世界中の誰でもない。ミカ様ただお一人。
——ならば、ミカ様をお連れすることこそが、本当の意味でシュンカ様をお守りすることになる。シュンカ様が取り返しのつかない"世界の敵"になる前に。引き戻せるのはミカ様だけだ」
「……命令違反の責めは、俺たちが負う」赫飛が静かに頷いた。
その瞳に揺るぎない覚悟が宿る。
セイレーンも覚悟を決めた
「ミカ様。シュンカ様のもとへお連れします。ただし——その体ですから歩かせは
しません」
彼らはミカを車椅子に乗せた。
撃たれた肩を庇いながら、彼女はそれに身を委ねた。歩く体力はまだ戻っていない。けれどシュンカのもとへ行くためなら、彼女はどんな形でも構わなかった。
「急ぐぞ。地上へ」
車椅子の車輪が、回り始める。傷ついた姫を乗せて幹部たちは崩れゆく街へと向かった。
地上ではたった一つの願いを失った王が泣きながら世界を壊し。
地の底では、その、たった一つの願い自身が傷ついた体で立ち上がろうとしていた。
引き裂かれた二人が今再び、互いのもとへと引き寄せられていく。
世界の終わりと救いの両方を。その小さな手に携えて。