擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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色々改造しまくっております


プロローグ①

冷たい雨が叩きつける窓ガラスの振動が、薄暗い廊下の空気をビリビリと震わせている。

 

「……っ」

 

メルセデスは、自身の右腕を無意識のうちに強く掻きむしっていた。

爪が薄い皮膚を削り、微かに血が滲む。廊下の奥から近づいてくる重い革靴の音が、かつて自分を舐め回すように見つめた義父――バルテルス男爵の、ひどく湿った足音と重なったからだ。

 

自分の体に流れる『ラミーヌの血』。それがどれほど悍ましい欲望を引き寄せるか、彼女の細胞が恐怖として記憶している。

 

ガシッ、と。

痛々しく肌を傷つける彼女の手首を、小さな手が力強く掴んだ。

 

エミールだ。

八歳の弟は、何も言わなかった。ただ、姉の震える手を痛いほどの握力で押さえつけ、自身の背後に庇うようにして、廊下の角へと半身を乗り出した。

 

ザッ……ザッ……。

 

松明の灯りが、石造りの壁に巨大な男の影を揺らめかせる。

夜番の衛兵。その手には、無骨な鉄の槍が握られている。

 

エミールは、自身の身の丈に合わない鋼の剣を、両手で逆手に握り直した。

呼吸が止まる。

心臓の音が、耳の奥で早鐘のように鳴り響いている。

 

衛兵が、角を曲がった。

その無精髭の生えた顔が、暗がりに潜む小さな影(エミール)を認識し、訝しげに眉をひそめた瞬間――

 

「――ァアアアアッ!!」

 

声変わりもしていない少年の、獣のような咆哮。

エミールは床を蹴り飛ばし、全体重を乗せて衛兵の懐へと跳躍した。

「なっ、貴様――坊っちゃん!?」

 

衛兵が咄嗟に槍の柄で防御姿勢をとる。

ガギィンッ!!

エミールの逆手打ちの剣が柄に激突し、火花が散る。しかし、八歳の子供の膂力と大人の兵士とでは、基礎となる質量が違いすぎた。

 

「ぐ、ぅっ……!」

 

エミールの体が空中で弾き返され、無慈悲に石の床へと叩きつけられる。

肺の中の空気が吐き出され、視界が明滅する。

 

「何をやっとるんですか、こんな夜更けに! 剣を捨て……痛ッ!?」

 

衛兵がエミールの胸ぐらを掴み上げようと手を伸ばした瞬間、エミールはその分厚い手に獣のように噛みついた。

血の味が口内に広がる。

 

「このクソガキッ!」

 

激痛に顔を歪めた衛兵が、容赦のない裏拳をエミールの頬に叩き込んだ。

 

ゴッ、という鈍い音と共に、エミールの小さな体が壁に激突する。

口の端から鮮血が飛び散り、彼の意識が泥のような暗闇へと沈みかけた。

 

(ああ……)

 

エミールの視界が、ぐにゃりと歪む。

遠くで、メルセデスの悲鳴が聞こえる。

このままでは、捕まる。姉さんは、あの男の部屋へ引きずり込まれる。母様は。俺は。

 

――殺せ。

 

脳の髄の奥底。ひどく冷たく、黒い泥のような底無し沼の中から、もう一人の自分の声がした。

生きるために。守るために。

目の前の肉の塊を、ただの『死体』に変えろ。

 

「……エミール? あっ、あぁっ……!」

 

メルセデスは、壁際でうずくまる弟の異変に気づき、悲鳴を飲み込んだ。

エミールが、ゆっくりと立ち上がる。

垂れた前髪の奥。その金色の瞳孔が限界まで見開かれ、一切の感情が抜け落ちたガラス玉のように虚無を映していた。同時に、彼の胸の奥で、呪われた『ラミーヌの小紋章』が、黒い脈動を上げて暴走を始める。

 

「ひっ……!」

 

歴戦の傭兵上がりであるはずの衛兵が、その異常な気配に一歩後ずさる。

目の前にいるのは、怯えた八歳の少年ではない。血に飢え、命を刈り取るためだけに顕現した『死神』だ。

 

エミールが消えた。

 

「な――」

 

衛兵が槍を構え直すより早く、エミールは地を這うような異常な低い姿勢で男の死角に潜り込み、その両膝の裏を重い剣の平で思い切り薙ぎ払った。それは、紋章の力が八歳の筋繊維を限界まで引きちぎりながら生み出した、人間離れした神速の踏み込みだった。

 

「ぎゃああっ!?」

 

関節を砕かれ、巨体が無様に石床へと崩れ落ちる。その瞬間、エミールは男の背中に馬乗りになり、両手で握りしめた鋼の剣の『柄頭(つかがしら)』を、男の後頭部へと振り下ろした。

 

ゴシャッ!!

 

肉と骨が砕ける、生々しい音が廊下に響く。

衛兵が痙攣し、床に血溜まりが広がる。すでに意識は飛んでいる。

だが、エミールの手は止まらなかった。

 

「……ァ……アハッ……」

 

壊れた人形のような、乾いた笑い声。

エミールは無表情のまま、二度、三度と、無抵抗な男の頭部へ、全体重を乗せて重い鉄の塊を振り下ろし続ける。

その異常な力は、完全に子供の筋力の限界を超え、己の筋肉や関節の繊維をブチブチと引きちぎりながら引き出された『狂気(リミッター解除)』の産物だった。

 

「エミールッ!! だめぇっ!!」

 

血飛沫が壁を汚す中、メルセデスが悲鳴を上げて飛び込んだ。

彼女は馬乗りになっている弟の背後から、その華奢な両腕を回し、彼を拘束するように力一杯抱きしめた。

 

「やめて! もう動かないわ! お願い、これ以上……人殺しにならないでっ!」

 

メルセデスの頬が、エミールの血と汗に塗れた首筋に擦り付けられる。

彼女の眼から溢れ出る熱い涙が、エミールの冷え切った肌を伝い落ちる。その瞬間、メルセデスの中に眠る『ラミーヌの大紋章』が、愛する弟の魂を護るように微かな温かい光を帯びた。

 

薄い寝着越しに、メルセデスの早鐘を打つ心臓の鼓動と、狂気を中和するような圧倒的な『生(光)』の感触が、エミールの背中から全身へと流れ込んでくる。

 

「……ッ、ぁ……」

 

振り上げられたままのエミールの両腕が、ピタリと止まった。

 

首筋に触れる、姉の涙の熱。

狂気の底へ沈みかけていた彼の意識を、強引にこの世界へと繋ぎ止める、必死の温もり。

 

「はぁっ……! はぁっ……!」

 

突如として瞳孔に光が戻り、エミールは過呼吸のように喘ぎ始めた。自分が今、何をしようとしていたのかを理解し、その手からガランッと剣がこぼれ落ちる。

 

「……ねえ、さん……俺……」

「大丈夫。大丈夫よ、エミール。あなたは、私を守ってくれたの」

 

メルセデスは震える弟を放さず、その汚れた頬に自身の顔を押し当て、何度も何度も彼の髪を撫でた。

彼女の甘く柔らかい匂いが、濃密な血と泥の匂いを上書きしていく。

 

エミールは、自分の中に巣食う『化物』の存在を、この時初めて明確に自覚した。

もし姉の熱がなければ、自分は永遠にあの暗闇から戻ってこられなかっただろう。

 

「……行こう。急がないと」

 

エミールはふらつく足で立ち上がり、床に落ちた鍵束を拾い上げた。

姉の手を強く握り返す。その手はもう、震えてはいなかった。

 

廊下の突き当たり、重厚なオーク材の裏扉。

鍵を差し込み、力任せに捻る。カキンと錠が外れ、扉が押し開けられた瞬間――

 

ザァァァァァァァッ!!

 

氷のような秋の豪雨と、むせ返るような泥の匂いが、二人の全身を容赦なく打ち据えた。

屋敷の裏手。木々が強風でうねる中、漆黒の馬を繋いだ古びた幌馬車が、雨に打たれながら待機していた。

 

「エミール! メルセデス!」

 

荷台の奥から、青ざめた母が身を乗り出して二人を呼ぶ。

 

「乗って、姉さん!」

 

エミールがメルセデスを荷台へと押し上げる。

 

遠く、屋敷の奥から「誰か倒れているぞ!」「逃げたか!」という怒号が、雨音を切り裂いて微かに響いてきた。

血の匂いに気づいた猟犬たちが、狂ったように吠え始めている。

 

「……絶対に、逃げ切る」

 

エミールは雨で滑る御者台へとよじ登り、手綱を自身の腕にきつく巻き付けた。

振り返った屋敷の窓には、次々と松明の灯りが点り始めている。

 

バルテルス家の屋敷に、もはや未練はない。 目指すは、この腐った貴族の権力すら及ばない絶対不可侵の領域――フォドラの喉元、ガルグ=マク大修道院。

 

「ハイッ!!」

 

エミールが手綱を振るい、裂帛の気合いを上げる。

馬がいななき、泥を激しく跳ね上げながら、重い馬車が夜の闇へと飛び出した。

 

追手との絶望的な距離。

自分の中に潜む『死神』の恐怖。

そして、冷たい雨の中で彼らを突き動かす、互いの命の熱。

運命を大きく狂わされた家族の、血と泥に塗れたガルグ=マクへの死の逃避行が、ついに後戻りのきかない濁流となって動き始めたのであった。

 

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