大修道院の地下深くに広がる奈落の街、アビス。
淀んだ冷気が支配するその空間の空気が、一人の少女の絶叫によって限界まで張り詰めた。
「め、メルセデス……お姉、様……っ!?」
瓦礫の山の上に立っていたコンスタンツェの薄紫色の瞳が、極限まで見開かれていた。
彼女は今、アビスの薄暗い環境下(日陰)にいる。本来であれば、ヌーヴェル家の再興を掲げ、不遜なまでの自信と高飛車な態度に満ち溢れているはずの状態だ。
しかし、彼女の眼前に立つふくよかな「お姉様」の姿が、コンスタンツェの脳裏に、魔道学院時代の眩しい思い出と、アビスという『どん底』に身をやつしている現在の己の姿を暴力的に対比させていた。
「な、なぜお姉様がこのような掃き溜めに……っ! いえ、わたくしは……わたくしはもう、あの時のように貴女の背に隠れるだけの無力な生徒ではありませんのよ!!」
かつての自分を知る者への強烈な劣等感と、意地。
コンスタンツェの顔が真っ赤に染まり、彼女の両手からパニックに近い魔力の暴走が始まった。
「見なさい! これがヌーヴェル家の真の……偉大なる魔術の力ですわーッ!!」
空間の魔素が悲鳴を上げ、巨大な炎球と雷の矢が、目標も定まらぬまま地下街の広場へと無差別に放たれた。
「ちっ……コンスタンツェの奴、また暴走しやがって! ま、いいぜ! 俺も血が疼いてたところだ!」
炸裂する炎の爆風の中、巨大な鉄のガントレットを構えた大男——バルタザールが、嬉々として地を蹴った。
その巨体が、一直線にメルセデスたちの陣形へと突っ込んでくる。
「……退け」
氷点下の声。
メルセデスを背後に庇うようにして前に出たエミールが、鋼の剣を真上段に構えた。
彼の金色の瞳孔はすでに完全に開ききり、内なる『死神』の殺意が、濃密な黒いオーラとなって全身から立ち上っている。
ガギィィィィィンッ!!
バルタザールの全体重を乗せたガントレットの強打と、エミールの剣が激突した。
周囲のテントがその衝撃波だけで吹き飛び、分厚い石畳が蜘蛛の巣のようにひび割れる。
「ヒャハハ! 重ぇな! 細身の兄ちゃんにしちゃ、すげぇ一撃じゃねぇか!」
「……黙れ。肉塊になれ」
エミールは剣を押し込まれた状態から、関節の構造を無視したような異常な角度で手首を返し、バルタザールの胸甲の隙間へと刃を滑り込ませた。
「おっとぉ!」
バルタザールが間一髪で身をよじるが、分厚い筋肉の表面が薄く切り裂かれ、血が飛ぶ。死に物狂いの生存本能と、圧倒的な暴力の応酬。二人の男による、泥と血に塗れた極限の肉弾戦が幕を開けた。
「おいおい、街を壊す気かよ。……お前らは俺がさっさと片付けるぜ」
混沌とする戦場の中、ユーリスの姿がブレた。
彼の手にある短剣が、最も小柄で与し易いと踏んだツィリルの首筋へと、音もなく、毒蛇のような速度で迫る。
(……来る)
ツィリルは瞬き一つせず、シャミアから叩き込まれた「狩人の予測」と、カトリーヌ直伝の重心移動で、神速のダッキングを試みる。
ザシュッ!
だが、ユーリスの刃はツィリルの予測をさらに上回る速度で追尾し、少年の頬を浅く切り裂いた。
「ボクは、メーチェを守る」
血が飛ぶのも構わず、沈み込んだ体勢から、ツィリルはエミール直伝の『死線を見極める剣』を下から上へと躊躇なく振り抜いた。
ギィンッ! とユーリスが咄嗟に短剣で防御する。筋力も、技術も、ユーリスの方が数段上だ。ツィリルの手首が痺れ、剣が弾き返される。
しかし。弾き返されたはずのツィリルは、一歩も後ろへ下がらなかった。
ユーリスの刃が自身の急所に届く距離に留まったまま、防御を完全に捨ててでも相手の足を止めるという『肉を切らせる』覚悟の踏み込み。
「おっ……?」
ユーリスの目が見開かれる。ただの小間使いのガキだと思っていた少年の、己の命すら実利の駒として使い潰す狂気的な姿勢。
「……ハッ。教団の飼い犬にしては、命知らずで狂暴な番犬じゃねぇか」
ユーリスが目を細め、獰猛に笑いながら剣を構え直した。
その時だった。
「お姉様! どうかわたくしを見て! わたくしの魔法をーーッ!」
パニック状態のコンスタンツェが、あろうことかメルセデスを一直線に狙い、特大の雷撃魔法の詠唱を完成させようとしていた。
「カトリーヌ!」
「任せな! そこの美形のお兄さんは、アタシが引き受けるよ!」
ツィリルの叫びと同時に、雷霆を抜いたカトリーヌがユーリスの眼前に割り込む。
ツィリルは自身より格上のユーリスを彼女に任せ、土を蹴り上げてコンスタンツェの元へと一直線に駆けた。
「ひゃっ!?」
コンスタンツェが雷を放つより早く。
ツィリルは彼女の懐へ飛び込み、その細く白い両手首を左手一本で乱暴に掴み上げると、彼女の背中をアビスの冷たい石壁へとガンッ!と強く押し付けた。
「な、なにをするんですの! 離しなさい、この野蛮な……っ!」
コンスタンツェがもがくが、ツィリルの腕はビクともしない。
壁とツィリルの身体の間に完全に密閉され、逃げ場を失うコンスタンツェ。彼女の鼻腔を、ツィリルの汗と、泥と、頬から流れる微かな血の匂いが暴力的に貫いた。
至近距離で交錯する視線。ツィリルの瞳に殺意はなく、『恩人を絶対に怪我させたくない』という意思だけが宿っていた。
「……うるさいです。あなたが暴れたら、メーチェが怪我するかもしれないじゃないですか。だから、大人しくして」
彼の嘘偽りのない真っ直ぐな吐息がコンスタンツェの耳筋にかかり、その不器用な少年の真剣な圧が、彼女の脳髄を直接揺らした。
「ぁ……っ、あ……」
圧倒的な腕力による物理的な制圧。そして、自分の魔法を少しも恐れず、ただ大切なものを守るためだけに真っ向から組み伏せてくる存在。
コンスタンツェの魔法の詠唱は完全に霧散し、恐怖と、得体の知れない熱によって膝の力が抜け、ツィリルの腕に縋るようにしてその場に崩れ落ちそうになった。
一方。
その背後で、ツィリルの言葉を聞いていたメルセデスは、自らの胸の奥が、火傷しそうなほどの熱でドロドロに溶け出していくのを感じていた。
自身が文字を教え、温もりを与えた教え子が、今、オスとしての牙を剥き出しにして自分を守ろうとしている。その事実が、彼女の情念の炎に大量の油を注ぎ込んでいた。
「もう……」
しかし、その混沌とした熱狂の戦場の隅で。
「砂埃は凄いし、暑いし、コニーはうるさいし……あーあ、マジで最悪」
瓦礫の陰に座り込んでいたハピが、心底イライラした様子で、自身の長い髪を乱暴に掻きむしった。
彼女の喉の奥から、周囲の空気を一瞬で凍りつかせるような『何か』が、今まさに漏れ出ようとしている。
「……はぁ」
アビスの澱んだ空気を震わせる、深く、重い『ため息』。
次の瞬間、地下街の石畳が、地鳴りのような咆哮と共に内側から弾け飛んだのだった。