「……はぁ」
アビスの澱んだ空気を震わせる、深く、重い『ため息』。
次の瞬間、地下街の分厚い石畳が、地鳴りのような咆哮と共に内側から爆発的に弾け飛んだ。
「グルルォォォォォォォォォォォッ!!」
巨大な四つん這いの異形――硬質な装甲殻に覆われ、腐臭と瘴気を撒き散らす魔獣が、ハピのため息に呼応してアビスの底から這い出してきた。
「なっ……なんだい、こりゃあ!?」
カトリーヌが咄嗟に雷霆を構え、目を見開く。
「ハピ! お前、こんなところで魔獣を呼ぶんじゃねぇ!」
ユーリスが血相を変えて怒鳴るが、ハピは舞い散る石の破片を避けながら、気怠げに耳を塞いだだけだった。
「……あーあ。言わんこっちゃない。皆がうるさくするから、こういうことになるんだし」
魔獣の巨大な腕が薙ぎ払われ、地下街のテントが紙屑のように吹き飛ぶ。
その理不尽な一撃は、教団の騎士たちも、灰狼の生徒たちも、一切の区別なく無差別に狙っていた。
「おい教団の犬ども! 死にたくなきゃ一旦手ぇ組め!」
ユーリスが短剣を逆手に持ち直し、鋭く叫ぶ。
「チッ……」
エミールはバルタザールとの鍔迫り合いを強引に解き、そのままの踏み込みを利用して、魔獣の硬質な前脚へと剣を叩き込んだ。
「ハハッ! そっちの方が手応えがありそうだぜ!」
バルタザールもまた、エミールと並走するように魔獣の逆の脚へと強烈なガントレットの拳を打ち込む。先程まで互いの臓腑を狙い合っていた二人の男が、魔獣の巨体を前に、一切の打ち合わせなく即席の破壊衝動を共有していた。
「ツィリル! 下がれ!」
シャミアの鋭い声が飛ぶ。
魔獣が激痛に身をよじり、巨大な尾を広場全体へ向けて薙ぎ払った。
ツィリルは腰を抜かしているコンスタンツェの襟首を乱暴に掴んで引き寄せ、安全な瓦礫の陰へと容赦なく放り投げる。その直後、シャミアの放った矢が魔獣の複眼の一つを正確に貫いた。
「グギャアアアアッ!」
魔獣が狂乱し、天井の支柱を太い腕でへし折った。
轟音。無数の巨大な石塊が、後方に立っていたメルセデスの頭上へと雨のように降り注ぐ。
「メーチェ!」
「ツィリルくん……っ!」
ツィリルは一切の躊躇なく土を蹴り、彼女を庇うようにその豊満な身体へ覆い被さった。
ゴシャッ、という鈍い破砕音。
ツィリルの背中の服が裂け、鋭い石の破片が彼の肉を深く抉り取る。
「ぐっ……!」
「ツィリルくん! ああ、血が……!」
生々しい鮮血が、メルセデスの純白の修道服へボタボタと滴り落ちる。
メルセデスは悲鳴を上げ、すぐさま両手から温かな白魔法の光を放ち、ツィリルの背中の傷口を塞ぎ始めた。
「ボクは大丈夫です。……それより、あいつを殺さないと、ここが崩れる」
ツィリルは背中の激痛に顔を歪めることなく、血と泥に塗れた顔で真っ直ぐに魔獣を見据えていた。
メルセデスの治癒の魔法が、ツィリルの傷を優しく塞いでいく。
その極限の死地の中で、彼の血の鉄錆の匂いと、メルセデスの甘い白檀の香りが濃密に混ざり合い、二人の身体は互いの熱を分け合うように密着していた。
(この子は、私が守る……絶対に)
背中越しに伝わってくる、ツィリルの力強い心音。自分が文字を教えた小さな子どもではなく、自分を庇って躊躇なく血を流した『一人のオス』の熱。メルセデスの碧い瞳に、狂気にも似た強い執着の光が完全に定着した瞬間だった。
「カトリーヌさん! 装甲の隙間だ!」
ツィリルがメルセデスの腕の中から身を乗り出し、手にしていた剣を躊躇なく投げ捨てると、背に負っていた自身の弓を限界まで引き絞る。
放たれた矢が、魔獣が咆哮を上げるために持ち上げた首元の、装甲の僅かな隙間へと深々と突き刺さった。魔獣の動きが一瞬だけ、完全に停止する。
「よくやったツィリル! ――消し飛べぇぇッ!!」
カトリーヌが跳躍し、英雄の遺産『雷霆』の眩い雷光が、魔獣の首を根元から完全に切断した。
ドスゥゥゥゥンッ……!!
莫大な質量の死体が崩れ落ち、アビスに濛々たる土煙と瘴気が舞い上がる。
「はぁ……はぁ……っ」
誰もが泥と血と汗に塗れ、肩で息をしていた。
殺し合っていた両陣営が、なし崩し的な共闘の末に、同じようにボロボロになって立ち尽くしている。
その、血生臭く静まり返った地下街に。
「やれやれ……困った子たちだ」
パチ、パチ、と。
ゆっくりとした、ひどく落ち着き払った拍手の音が響いた。
土煙の向こう側から、豪奢な教団の法衣を纏った一人の男が、柔和な微笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
アルファルド・ロンヴァルト枢機卿。
「怪我はないかい、君たち。……それに、地上の騎士殿たちも。こんなむさ苦しい場所へ、ようこそ」
周囲の凄惨な状況とはまるで噛み合わない、汚れ一つない法衣と、完璧に整った笑み。
その男の裏側に潜む、ひどく冷たく、胡散臭い『匂い』を。
シャミアに鍛え上げられ、アビスの泥臭い死線を潜り抜けたツィリルの嗅覚が、本能的に、そして確実に察知していたのだった。