「怪我はないかい、君たち。……それに、地上の騎士殿たちも。こんなむさ苦しい場所へ、ようこそ」
土煙の向こうから現れた男の姿に、その場にいた全員の動きが止まった。
アルファルド・ロンヴァルト枢機卿。アビスの管理者であり、教団内でも温厚で知られる聖職者。
彼が歩み寄るたび、微かに香(こう)の匂いが漂う。
魔獣の腐れた体液と、戦士たちの汗と血の匂いが充満するこの地下街において、彼の纏う純白の法衣は、狂気的なまでに『清潔』だった。
「……アルファルド様。どうしてアンタがここに」
ユーリスが、手にした短剣を下ろさずに低い声で問う。
「騒ぎの気配がしてね。急いで来てみれば……まさか、地上の騎士殿たちと刃を交えていたとは。それに、魔獣まで。まったく、君たち灰狼の学級(生徒)は血の気が多くて困る」
アルファルドは困ったように眉を下げ、まるで悪戯をした子供をたしなめるような、ひどく柔和な笑みを浮かべた。
カトリーヌが雷霆を肩に担ぎ直し、舌打ちをする。
「アタシらは散歩に来たわけじゃない。そっちのネズミが、こっちの連れの『大事なもの』を掠め取りやがったんだ。魔獣はただのトバッチリさ」
「ああ、大事なものとは……これのことかな?」
アルファルドが懐からゆっくりと取り出したもの。
それは、鈍く光る古い意匠のブローチだった。
「あっ……!」
メルセデスが小さく声を上げる。ツィリルの背中の傷を塞いでいた彼女の指先が、微かに震えた。
「先程、入り口付近でひどく怯えた様子のスリの少年を保護しましてね。地上の騎士に追われていると。……彼らにも生活がある。どうか、今回ばかりは私に免じて許してはいただけないだろうか」
アルファルドは静かに頭を下げると、メルセデスに向かって歩み寄り、その白く美しい手でブローチを差し出した。
「さあ、お嬢さん。大切なものなのだろう?」
メルセデスは躊躇いがちに手を伸ばし、ブローチを受け取る。
「……ありがとうございます。枢機卿、様」
失われた形見が戻ってきた。本来なら安堵で胸を撫で下ろす場面だ。しかし、メルセデスのもう片方の手は、ツィリルの衣服の裾を、彼自身に隠れるようにギュッと強く握りしめたままだった。
彼女の直感が、目前の柔和な聖職者から「何か」を感じ取り、無意識にツィリルの熱(庇護)を求めていたのだ。
そのメルセデスの微細な震えを、ツィリルは背中で正確に感じ取っていた。
ツィリルは無言のまま半歩前に出て、メルセデスとアルファルドの間に割り込むように立った。
(……くさい)
血や泥の匂いじゃない。
香と作り笑いの奥底に隠された、ひどく冷たくて、ドロドロに腐った執着の匂い。
「ありがとう、お坊ちゃん。彼女を守ってくれていたんだね」
アルファルドがさらに一歩、メルセデスへ近づこうとした。
その瞬間、ツィリルは弓を握る手にギリッと力を込め、一切の愛想もなく、アルファルドを射殺すような鋭い視線で睨みつけた。
これ以上、一歩でもメーチェに近づくなら、射る。
全身から発せられる明確な拒絶と警戒の圧。
「……ツィリル? どうしたの?」
いつもと違う少年の張り詰めた様子に、メルセデスが戸惑う。
ユーリスやエミールも、ツィリルの過剰とも言える警戒態勢に怪訝な顔をした。
「はは……少し、人見知りが激しい子なのかな。立派な騎士殿(番犬)だ」
アルファルドは困ったように微笑み、それ以上メルセデスに近づくことはせず、ふわりと大人の余裕で一歩身を引いた。
シャミアが「見知らぬ大人には、警戒心が強くてな。気にしないでくれ」と短く庇い、その場の凍りつきかけた空気は、アルファルドの柔和な態度によって穏便に霧散した。
だが、ツィリルだけは騙されなかった。
(……今、一瞬だけ。こいつの目の奥が、真っ暗になった)
「……実は、君たち教団の騎士に、折り入って頼みがあるんだ」
アルファルドは何事もなかったかのように、ゆっくりとカトリーヌとシャミアたちを見回した。
「……実は、君たち教団の騎士に、折り入って頼みがあるんだ」
アルファルドはゆっくりとカトリーヌとシャミア、そしてツィリルたちを見回した。
「最近、このアビスに傭兵崩れの賊が頻繁に侵入してきている。彼らの狙いは、アビスのさらに地下深くに封印されている『宝杯』と呼ばれる古代の遺物だ。……ユーリスたち灰狼の学級に防衛を任せていたが、先程の魔獣騒ぎで彼らも消耗してしまった」
アルファルドは深くため息をつき、ひどく痛ましそうに顔を伏せた。
「このままでは、アビスの民が賊の巻き添えになってしまう。だから、宝杯を教団の目が行き届く『安全な場所』へと移送したい。……どうか、君たちの力を貸してもらえないだろうか?」
大義名分。民を守るための、慈悲に満ちた聖職者の願い。
カトリーヌが「教団の遺物が狙われてるなら、見過ごせないね」と顎を撫でる。
しかし、ツィリルの本能は警鐘を鳴らし続けていた。
(嘘だ。こいつは、アビスの人間なんてどうでもいいと思ってる)
ツィリルは背後に立つメルセデスを護るように庇いながら、アルファルドの『作り物の笑顔』を、射殺すような冷徹な瞳で睨み返していた。
泥濘と欺瞞に満ちた、地下深層(奈落)への死の行軍が、今、最悪の形で幕を開けようとしていた。